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( 移築門 林昌寺山門 ) |
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( 移築門 円光寺山門 ) |
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( 移築門 浄徳寺山門 ) |
天正10年に織田信長が本能寺で斃れた後、姉小路頼綱(三木自綱)は高原諏訪城主江馬輝盛を討ち滅ぼし飛騨を平定する。しかし、天正11年、柴田勝家が羽柴秀吉に賤ヶ岳で敗れて滅びるが、その後も秀吉と敵対していた越中佐々成政と同盟していた姉小路氏も秀吉による討伐対象となった
天正13年、羽柴秀吉は越中佐々成政討伐と同時に飛騨討伐も行い、越前大野城主金森長近に命じて越中から飛騨に侵攻させた。長近は、姉小路氏(三木氏)に飛騨を追われた江馬時政や広瀬宗直らの飛騨衆らに先導せ、松倉城・高堂城の姉小路(三木)氏を攻め滅ぼした。
飛騨討伐の戦功により金森長近は、天正14年に飛騨一国38,700石を与えられて鍋山城に入り、天正16年から高山城の築城を開始する。長近は、養子可重に10,000石を与えて古川城に入れて古川盆地を支配させ、天正16年頃から増島城の築城も開始して可重を城主とした。
慶長13年に金森長近が没して可重が家督を継ぎ2代藩主となり、可重の長子重近が増島城主となった。慶長19年、大坂の陣で徳川方に与することに反対した重近は廃嫡され、京に隠遁した後に剃髪して宗和と号し、茶の湯に秀で宗和流の始祖となっている。
元和元年、一国一城令によって増島城は築城わずか30年で廃城となった。その後、「古川旅館」と改称して存続していたが、元禄5年に金森氏の出羽上山への転封に伴い高山城共々破却された。 |