飛弾 松倉城


お城のデータ
所在地 岐阜県高山市西之一色町松倉山
遺 構 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀
形 式 山城 築城者: 三木自綱 築城年代: 天正7年


見 ど こ ろ
( 本丸腰曲輪西南隅の高石垣 )
( 主郭虎口付近の石垣 )
( 天守台東南隅の石垣 )
( 天守台内側の石塁 )
 松倉城は、高山盆地の南西部に位置する松倉山の山頂部に築かれている。北の麓にある飛騨の里周辺が武家屋敷群あり、ここから山頂部へと七曲りの登城道が通じている。

 また、松倉峠まで林道があり、ここから西尾根沿いに遊歩道が整備されている。駐車場から遊歩道を登ること約10分。息が切りかけた頃、行く手に高々と築かれた松倉城の三の丸西南隅櫓台の石垣が出迎えてくれる。

 松倉山山頂に置かれた本丸は、二段に分かれていて下部に腰曲輪を伴う。上段は天守台とも考えられ、ここのあった天守は高山城と同様に、御殿の上に望楼が乗った二層程度のものではなかろうか。天守からの眺めは眼下に高山盆地・遠く北アルプスの山々まで見渡す絶景をであっただろう。

 本丸東側に二の丸を置いて大手筋・水の手を押さえ、更に東の出丸が東の尾根の2条の堀切と共に東の遮断線を構成している。本丸から北へ伸びる尾根筋には段曲輪と堀切を設けて東の尾根筋と同様に防備を固めている。

 一方、西側には三の丸を置き搦手筋を押さえ、更に一段低い南側に出丸がある縄張りだ。三の丸と南出丸と虎口は石垣で固められ、西の尾根筋に対する遮断線は1条の堀切しかなく、搦手を固めるための高石垣であり、随所に矢が掛かる縄張りとなったのだろう。

 天正14年に金森長近が飛騨に入り高山城の完成するまでの間、この松倉城を改修したとも十分あり得ることであり、今に見る石垣づくりの近世城郭松倉城は、金森長近による改修時に築かれたと考えるのが素直かもしれない。


歴     史
( 南の出丸南石門跡 )
( 二の丸南面の石垣 )
( 北尾根の搦手曲輪先端 )
 永禄3年に三木自綱は飛騨国司姉小路(古川)氏の名跡を継承して国司に任じられ姉小路頼綱と称した。天正7年に松倉城を築いて下飛騨の桜洞城から居城を移した。

 天正10年、織田信長が本能寺の変で横死した後、高原諏訪城主江馬輝盛が勢力拡大を狙い、姉小路氏の宗家小島時光の居城小島城を攻めた。姉小路頼綱は小島城救援のため出陣し、八日町の戦いで輝盛を敗死させ、居城の高原諏訪城を攻め落として江馬氏を飛騨から追放して飛騨を平定した。

 飛騨を平定した姉小路頼綱は、天正11年に家督を嫡男秀綱に譲り、広瀬城へと移る。この頃、賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下人へと駆け上がるが、小牧・長久手の戦い以降も秀吉に越中富山城主佐々成政は秀吉に従わず抵抗していた。秀吉は、成政と同盟関係にある姉小路頼綱も討伐対象とし、越前大野城主金森長近に飛騨討伐を命じた。

 天正13年、金森長近は飛騨から逃れた広瀬宗直・江馬時政らを先導役として飛騨へと侵攻する。佐々氏の援軍も得られず金森勢に飛騨の諸城も次々と落とされ、姉小路秀綱の籠もる松倉城も金森勢の攻撃に良く耐えたが、ついには内応者が出て落城し秀綱・季綱は討死した。

 隠居の姉小路頼綱の籠もる広瀬城・高堂城も金森勢に攻められて頼綱は降伏した。頼綱は隠居の身であった故に助命され京へと去り、姉小路(三木)氏は滅亡した。


お城へのアクセス
鉄 道: JR高山本線高山駅〜バス/飛騨の里(登城口)
 車 : 中部縦貫道高山IC〜国道41号線〜国道158号線
駐車場: 松倉城の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
飛騨統一を成し遂げた姉小路(三木)氏の居城。

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