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( 二の丸南側の堀切 ) |
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( 二の丸堀切と土橋 ) |
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( 権現曲輪東側の土塁と虎口 ) |
韮山城は、明応2年に伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれた。伊勢宗瑞は、今川氏の内紛を鎮めた功により駿河興国寺城を与えられた。明応2年には足利政知の跡を継いだ茶々丸を堀越御所に攻めて堀越公方家を滅亡させた。
伊豆を手中に収めた宗瑞は韮山城を築いて居城とした。その後相模へ所領を拡大するが、永正10年に没するまでこの城から居城を移すことはなかった。
北条氏を名乗った2代氏綱以降、北条氏の本城は相模小田原城へと移るが、伊豆を支配する拠点と位置づけされ笠原氏・清水氏らの重臣が郡代として在城した。韮山城は、天正13年頃から豊臣秀吉との戦いに備えて改修が進められ、天正17年には北条氏政の弟氏規が城主となった。
天文18年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、豊臣方44,000余の大軍が韮山城を包囲した。北条氏規は、関東各地の北条方の城が落城する中で3ヶ月の籠城戦を戦い抜き、徳川家康の勧告に従って開城した。
家康の関東移封後、韮山城へは内藤信成が1万石を領して入ったが、慶長6年に信成は駿河府中4万石へと加増されて移り、韮山城は廃城となった。 |