伊豆 韮山城


お城のデータ
所在地 静岡県伊豆の国市韮山韮山
遺 構 曲輪、土塁、堀切、水堀
形 式 平山城 築城者: 伊勢宗瑞 築城年代: 延徳3年


見 ど こ ろ
( 本  丸 )
( 塩蔵の土塁 )
 韮山城は、韮山高校背後の南北に伸びる丘に築かれている。東側には城池が堀の役目を果たし、居館が現在の高校敷地一帯に築かれ、

 韮山城は、背後の独立丘天ヶ岳山頂に天ヶ岳砦を置き、八方に伸びる尾根筋に江川砦・金谷砦・和田島砦・土手和田島砦などの砦が築かれている。韮山本城とそれぞれの砦とが連絡路で結ばれ、砦も含めると豊臣方4万余の大軍に囲まれて3ヶ月も戦い抜いたの大規模な城だ。

 砦群や豊臣方の付け城は、一部の砦は神社境内となっているが遊歩道など公園化されて折らず、「薮こき」覚悟でブッシュをかき分け登るしかない。

 韮山本城は、丘陵の上に北から高校のグランドとなっている三の丸、熊野神社がある権現曲輪、一段高く二の丸、本丸と連郭階梯郭式に曲輪が並らんでいる。

 三の丸・権現曲輪には高い土塁と虎口の遺構あり、二の丸南側には土塁と堀切・土橋の遺構が良く残っていた。更に細尾根を利用した土塁の先には土塁囲みの塩蔵(焔硝蔵)があった。 


歴     史
( 二の丸南側の堀切 )
( 二の丸堀切と土橋 )
( 権現曲輪東側の土塁と虎口 )
 韮山城は、明応2年に伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれた。伊勢宗瑞は、今川氏の内紛を鎮めた功により駿河興国寺城を与えられた。明応2年には足利政知の跡を継いだ茶々丸を堀越御所に攻めて堀越公方家を滅亡させた。

 伊豆を手中に収めた宗瑞は韮山城を築いて居城とした。その後相模へ所領を拡大するが、永正10年に没するまでこの城から居城を移すことはなかった。

 北条氏を名乗った2代氏綱以降、北条氏の本城は相模小田原城へと移るが、伊豆を支配する拠点と位置づけされ笠原氏・清水氏らの重臣が郡代として在城した。韮山城は、天正13年頃から豊臣秀吉との戦いに備えて改修が進められ、天正17年には北条氏政の弟氏規が城主となった。 

 天文18年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、豊臣方44,000余の大軍が韮山城を包囲した。北条氏規は、関東各地の北条方の城が落城する中で3ヶ月の籠城戦を戦い抜き、徳川家康の勧告に従って開城した。

 家康の関東移封後、韮山城へは内藤信成が1万石を領して入ったが、慶長6年に信成は駿河府中4万石へと加増されて移り、韮山城は廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅〜バス/韮校前
 車 : 伊豆中央道江間IC〜県道134号線
駐車場: 江川邸の見学者用無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
北条氏が伊豆支配の拠点として築いた大規模なお城。

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