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( 三の曲輪西側の石垣 ) |
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( 三の曲輪西側櫓台と石垣 ) |
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( 三の曲輪南側の土塁 ) |
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( 三の曲輪西側の堀切 ) |
追揚城は、友枝川と東友枝川の合流点に向けて南から半島状に突き出した尾根先端部を利用して築かれている。背後の尾根のピークには叶松(加能松)城があり、更に丘陵の南には内蔵寺山城がある。
追揚城は、立地から見て叶松城の支城として築かれたとされている。しかし、叶松城が単郭の城であることから、叶松城が追揚城の「詰の城」であり、内尾氏の本城はこの追揚城であると考えられる。
城の縄張りは、尾根先端部に麓付近まで掘られた三重の堀切を構築して麓からの侵入を防ぎ、ここから尾根に沿って二の曲輪・一の曲輪・三の曲輪と連郭式に曲輪が並び、叶松城に続く三の曲輪南側の尾根を二重の大堀切で遮断して背後を固めている。更に城の西側斜面は比較的斜面が緩やかなため、曲輪下には横堀が構築され、その下には幅の広い6条もの畝状竪堀群が防備を固めている。
これらの大堀切や横堀と組み合わせた畝状竪堀群は、大規模なもので野仲氏の家臣出城に容易に構築できるものとは考えし難い遺構だ。しかも、背後に本城があるのならば、いくら本城の前衛であってもここまで背後の警戒する必要もなく、追揚城の本城説の妥当性を裏付ける根拠の一つと云えるだろう。まして、三の曲輪南側には堀切に面して高土塁まで築いているのだ。
一の曲輪と三の曲輪との間には堀切があったが、これを埋めて曲輪の拡張工事を行っていて、その時に築かれた石垣が東側と西側に残っている。また、西側には矢をかけられるように櫓台の張り出しがあり、この付近にも石垣の遺構が見られた。ただ、一の曲輪と二の曲輪にある石段の遺構は、後世に一の曲輪に祀られた神社に伴うもののようだ。 |