豊後 鶴崎城



お城のデータ
所在地 大分県大分市南鶴崎3丁目
遺 構 なし。
形 式 平城 築城者: 吉岡長増 築城年代: 戦国時代


見 ど こ ろ
( 船着場跡の石碑 )
 鶴崎城は、大野城と乙津川に挟まれた水運に適した立地で、現在の鶴崎小学校と大分鶴崎高校の敷地となっている一帯に築かれていた。現在は、城・御茶屋の以降などは何も残っていない。小学校の南端に案内板が立てられ、新堀公園内に参勤交代時の御座船発着所跡の石碑がある。

 鶴崎城は、島津氏到来の際に外郭・二の丸・三の丸を増築いたとされ、元々の吉岡氏時代の城は居館形式の城であったと考え、細川時代の御茶屋がほぼ方形の居館形式で周囲に堀を巡らした縄張りであったので、吉岡氏時代の主郭部を引き継いだものと考えて間違いないだろう。


歴     史
( 加藤清正建立の放心寺 )
 鶴崎城は、戦国時代に吉岡長増によって築かれたと伝えられている。吉岡氏は千歳城を本拠とする大友氏一族で、長増は智将として名高く大友義鎮に臼杵鑑速・吉弘鑑理と共に大友三老の一人として重用された。天正14年に島津氏が豊後に侵攻した際、鶴崎城をには伊集院久宣ら島津勢が攻め寄せた。城主吉岡統増は臼杵城の守備に入っており、統増の母妙林院が城代として奮戦して城を守り抜いた。

 慶長6年、加藤清正は天草の替地として豊後鶴崎・佐賀関・野津原・久住で25,000石を与えられ、鶴崎城を鶴崎御茶屋とし隣接して放心寺を建立した。寛永9年に加藤忠広が改易され、代わって細川忠利が肥後熊本へ入り、豊後で2万石を与えられ御茶屋を采地陣屋として整備した。


お城へのアクセス
鉄 道: JR日豊本線鶴崎駅〜徒歩宅15分
 車 : 東九州道大分宮河内IC〜県道614号線〜国道197号線
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
島津氏の来襲に耐えた城も江戸時代には御茶屋に・・・。

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