伊豆 山中城


お城のデータ
所在地 静岡県三島市山中新田
遺 構 曲輪、土塁、横堀、土橋
形 式 山城 築城者: 北条氏康 築城年代: 永禄年間


見 ど こ ろ
( 障子堀の西の丸堀
( 西の丸から見る西櫓出丸)
( 西の丸虎口と土塁 )
 山中城は、箱根外輪山の外側中腹に位置し、北・西・南の三方が渓谷に囲まれた要害の地に築かれている。しかも、山中城三の丸と出丸との間には箱根八里を越えた東海道が通り、交通の関門でもあった。

 山中城の縄張りは、最高所に本丸を置き、西側に伸びる尾根筋に二の丸(北条丸)・元西櫓・西の丸・西櫓と連郭式に曲輪が並ぶ。

 本丸の北に続く尾根筋には北の丸、本丸から南に伸びる尾根筋には三の丸・南櫓、そして石畳の東海道を隔てて岱崎出丸が設けられていた。

 山中城の特徴は何と云っても曲輪を囲繞する堀にこれでもか、これでもかと云うほどに設けられた畝堀・格子堀だろう。

 畝堀・格子堀とはどんなものかは、写真や書籍から知ってはいたが、実際にこの城で見たとき、「おおっ〜これが・・・」そんな感動がこみ上げてきた。本丸と二の丸の間、西の丸、出丸の岱崎丸の堀で見られ、特に西の丸堀が見事だ。

 この城が、秀吉による小田原攻めの時、わずか半日で落城したなんて信じられない。例え、秀吉の大軍に攻められたとしても、少なくても 半月や一月は十分に持ちこたえられたと思うのは、北条氏政と私だけか。 


歴     史
( 二の丸虎口と土塁 )
( 本丸堀の障子堀 )
( 本丸北側の空堀 )
 山中城は、永禄年間に北条氏康によって築城された。山中城は東海道の関所としての役割も果たし、小田原城の西の境目の城として、また伊豆・駿東の韮山城や足柄城との繋ぎの城として重要な城であった。

 永禄12年に武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河へ侵攻を開始する。この時に韮山城と山中城が武田氏に攻められているので、山中城は永禄10年頃までには築かれていたと考えられている。

 武田氏滅亡後、天正15年には北条氏は天下統一を目指す豊臣秀吉との緊張が高まると、重臣松田康長を山中城の城代として入れ城の普請を命じている。

 天正17年、壬生義雄に命じて岱崎出丸を含む大規模な改修が行われた。この普請は翌年まで継続して行われたが、未完のまま豊臣氏との開戦となった。

 天正18年、豊臣秀吉による北条征伐の始まる。山中城は、小田原城防衛の最前線となり、城代松田康長の他に援軍の北条氏勝・間宮康俊・朝倉重高ら4千の将兵が豊臣方の大軍を迎え撃った。しかし、徳川家康・豊臣秀次を主力とする総勢7万の大軍の前には為す術もなく僅か半日で落城してしまった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線三島駅〜バス/山中城趾
 車 : 東名沼津IC〜伊豆縦貫道三島塚原IC〜国道1号線
駐車場: 山中城の無料駐車場(50台程度)を利用


ひとくち MEMO
小田原城の西の押さえとして、また要衝箱根を守るためのお城。

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