お城のデータ | |||||
所在地: | 兵庫県豊岡市出石町内町 | ||||
遺 構: | 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀 | ||||
形 式: | 山城 | 築城者: | 山名祐豊 | 築城年代: | 天正2年 |
見 ど こ ろ | |||
現在は、出石城稲荷曲輪から有子山城の城跡碑を見て尾根筋を登るが、尾根右手の谷筋を井戸曲輪まで直登するのが本当の登場道。尾根上の小曲輪が階段状に幾段も配されている。直登する急な坂道、横手の尾根から矢弾を打ち下ろされてはたまったものでないか・・・。 城の縄張りは、山頂部に本丸を置き、西の尾根筋へ6段の曲輪が並べられ、本丸と三段目の曲輪には見事な石垣が積まれて、3段目の曲輪の石垣にはシノギ積みの石垣がある。 本丸背後には大堀切があり、堀切を隔てて千畳敷と呼ばれる広い曲輪が配され、城内で居館スペースと考えられる。主郭から南東・北西に伸びる尾根筋には竪堀を伴う堀切がそれぞれ設けられている。この堀切まで降りるのに一苦労するが、深さもあり、是非見ておきたい遺構の一つだ。 |
歴 史 | |||
その後、但馬に復帰した山名祐豊は有子山に築城して再起を図る。天正8年、竹田城を拠点とする羽柴秀長に攻められ落城、但馬守護山名氏は滅んだ。 天正13年、前野長康が播磨三木より有子山へ移され105,000石を領した。関白秀次の側近となった長康は、文禄4年に秀次謀反の罪に連座して改易となった。 代わって小出吉政が播磨龍野から入り53,000石を領した。慶長9年、2代吉英は、領国経営に不便な山城を廃し、山麓の居館部を大修築して近世城郭出石城を築いた。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR山陰本線豊岡駅〜バス/出石 |
車 : | 北近畿豊岡道和田山IC〜国道9号線〜県道2号線 |
駐車場: | 出石城前の有料駐車場を利用。 |
ひとくち MEMO | ||||||
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