但馬 出石城


お城のデータ
所在地 兵庫県豊岡市出石町内町
遺 構 櫓、曲輪、石垣、堀、家老屋敷
形 式 平山城 築城者: 小出吉英 築城年代: 慶長9年


見 ど こ ろ
( 本丸北東隅復元櫓 )
( 二の丸御台所虎口と石垣 )
( 山里丸の石垣 )
 まずは腹ごしらえ。出石は「皿そば」が名物だ。うどんがメインの関西で唯一おいしいそばが食べられるのが出石。そばは、信州から仙石氏が国替えで出石に移封して来た時に持ち込んだものだとか。

 但馬守護山名祐豊が築いた有子山城と山麓の出石城とは一対の城と云える。出石城背後の比高310mを誇る山頂に築かれた有子山城で、平時の居館部が山麓部に築かれていた。

 平成18年に行われた発掘調査では出石城の本丸・二の丸石垣の内側から織豊期の石垣が出土していることから、近世出石城築城以前にも居館が存在して、慶長9年に小出吉英の新城築城は以前からあった居館部を大修築しての築城であったことが証明されている。

 出石城の縄張りは、有子山から北へと伸びる尾根筋の山麓部に一二三段式に稲荷曲輪・本丸・二の丸・下の曲輪が並び、稲荷曲輪にはこの城の鎮守稲荷神社が祀られ、本丸には二基の隅櫓が復元されている。

 これ四段の中枢部の曲輪群の東側に山里丸、西側に西の曲輪を配置して、山麓からこれらの曲輪群を包むように掘られた二条の竪堀が、そのまま三の丸の内堀と繋がっている。

 三の丸は、小出吉英が再封されて以後に築かれたもので、現在の豊岡市出石市庁舎(対面所跡)から西側の市営駐車場・仙石騒動の立役者仙石左京の長屋門が残る一帯で、三方を内堀で囲まれ、三の丸北正面に大手門が設けられ、脇の櫓台上には辰鼓櫓が建てられている。三の丸東門は消滅してるが、西門の枡形虎口が仙石家老屋敷内の南東隅に残っていた。


歴     史
( 下の曲輪埋門 )
( 大手門脇の辰鼓櫓 )
( 三の丸西口門の石垣 )
 文禄4年、豊臣秀吉の従兄弟小出吉政が播磨龍野から有子山城へ移り55,000石を領した。慶長5年の関ヶ原では小出秀政・吉政親子は西軍に与したが、弟秀家が東軍に与した。戦後、秀家の功に免じて秀政・吉政父子は本領安堵となっている。

 慶長9年に和泉岸和田城主小出秀政が死去すると、吉政は岸和田へと移り、有子山城へは吉政の嫡男吉英が入り50,000石を領した。有子山城へ入った吉英は、領国経営に不便な山城を廃し山麓の居館部を大修築して近世城郭出石城を築いた。

 慶長18年、小出吉英は父吉政に死去に伴い和泉岸和田へ移り、弟吉親が29,700石を領して出石城主となった。元和5年に吉親が丹波園部へと移封となり、兄吉英が50,000石で再封となった。

 寛文6年に吉英の遺領を嫡男吉重が嗣いだ際、弟英本(倉見小出家)と英信(大藪小出家)にそれぞれ2,000石、外孫の秀勝(山本小出家)に10,00石を分知、更に延宝元年に吉重の跡を継いだ英安も弟英直(土田小出家)を1,500を分知している。元禄9年に6代英及が3歳で夭折し出石小出家は無継嗣により改易となった。

  小出氏断絶後、武蔵岩槻より松平忠徳が48,000石で入る。忠徳は本丸の藩主居館を三の丸に移して対面所とした。対面所はそれ以降の歴代出石藩主の居館となった。宝永3年忠徳は信濃上田へと移封となり、入れ替わって仙石政明が53,000石で入封した。天保7年に7代藩主久利の代で起きた仙石騒動により仙石家は30,000石へと減封となり明治を迎えた。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陰本線豊岡駅〜バス/出石
 車 : 北近畿豊岡道和田山IC〜国道9号線〜県道2号線
駐車場: 大手辰鼓櫓近くの市営有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
名物の『皿そば』食べて腹ごしらえ、さぁ! いざお城へ。

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