お城のデータ | |||||
所在地: | 埼玉県さいたま市岩槻区太田1丁目 | ||||
遺 構: | 現存門、曲輪、土塁、空堀 | ||||
形 式: | 平城 | 築城者: | 太田道真・道灌 | 築城年代: | 長禄元年 |
見 ど こ ろ | |||
高々と築かれた土塁と空堀が完存していて、空堀底の道に堀障子が設けられていた。堀障子があることから、この曲輪が北条氏の改修によって築かれたことがわかる。堀底の道を通り、鍛冶曲輪の馬出跡へと至るルートを歩くと、土塁の城を満喫することができる。思わず土塁を駆け上りたくなる衝動に駆られてしまう。 岩槻城の縄張りは、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に本丸・二の丸・三の丸など曲輪があり、湿地を挟んでその北側に新正寺曲輪、南側に新曲輪・鍛冶曲輪が配置されていた。更に小田原城同様に城下町を囲むよう大構があった。岩槻駅近くの愛宕神社付近に今も大構の遺構が残っている。 |
歴 史 | |
文明18年に道灌が謀殺された後、孫の太田資頼が城主となった。一時北条氏に渡るが、資頼・資時・資正・氏資と太田氏4代の居城であった。永禄10年に太田資正は、佐竹義宣を頼り常陸片野城へと移り、岩槻城は北条氏の持城となって北条氏房が入城した。 江戸時代の岩槻城は、三河譜代の重臣(老中)の居城と位置付けされていたようで、高力・阿部・板倉・松平・小笠原・永井氏と目まぐるしく城主が替わる。宝暦6年、永井直陳が美濃加納に移封され、大岡忠光が上総勝浦より2万石で入封。以後大岡氏が8代続いて明治に至った。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | 東武野田線岩槻駅〜バス/岩槻城趾公園 |
車 : | 東北道岩槻IC〜国道122号線〜県道2号線 |
駐車場: | 岩槻公園の無料駐車場を利用 |
ひとくち MEMO | ||||||
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