 |
( 二の曲輪東側の土塁 ) |
 |
( 三の曲輪の枡形虎口と土塁 ) |
 |
( 主郭北側曲輪群の土塁 ) |
片野城は、文永年間に小田氏の一族八田将監が築いたと伝えられている。南北朝時代には、片野親吉が片野城主となり小田城に入った北畠親房を助けたとの伝承がある。
永禄7年に佐竹義重と組んだ上杉謙信は、山王堂の戦いで小田氏治を敗走させ、小田城を攻め落とした。この結果、片野城を含む北郡一帯は佐竹領となったと考えられている。
永禄9年に佐竹義重は、武蔵岩槻城を北条氏康に奪われ義重の客将となった太田資正に片野城を与えた。資正は片野城を拡張する大修築を行い、柿岡城主となった二男梶原政景と共に小田氏と対峙していた。
永禄12年、太田資正は佐竹義重・真壁氏幹らと共に手這山の合戦で小田氏治に勝利し小田氏の本拠小田城を落とし、氏治を藤沢城へと敗走させた。資正は、天正19年に没し、家督は三男資武が継ぐ。資武はその後結城秀康に仕え、片野城へは佐竹氏の家臣石塚義辰が石塚城から移った。
慶長5年の関ヶ原で西軍に与した水戸城主佐竹義宣は、出羽久保田城に転封となり石塚氏も従い出羽へ移り片野城は廃城となった。
慶長8年、関ヶ原で西軍に与して伊勢神戸32,000石を改易された滝川雄利は、徳川秀忠の御伽衆として取り立てられて新封20,000石を賜り、片野に入り陣屋を構えた。寛永2年、2代正利は継嗣なく病弱を理由に所領返上を願い出たため、18,000石を収公され、正利の娘婿滝川利貞が名跡を継承して2,000石を領して旗本に列した。元禄10年に4代利錦が元禄の地方直しにより所領を近江国内へと移された。 |