お城のデータ | |||||
所在地: | 三重県鈴鹿市神戸本多町 | ||||
遺 構: | 天守台、石垣、堀、移築櫓、移築門 | ||||
形 式: | 平城 | 築城者: | 神戸利盛 | 築城年代: | 弘治元年頃 |
見 ど こ ろ | |||
本丸内部には、野面積みの天守台が残っていて、丸みを帯びた川石が結構使用されているのが特徴的だ。天守台の構造から見ると、付け櫓がある天守だったようで、彦根城の天守と良く似た建て方だという印象を受けた。また、天守は伊勢桑名城に移築され、神戸櫓と呼ばれていた。 神戸城の建物の遺構は、太鼓櫓と大手門が移築されて残っている。大手門は、簡素な造りであるが、騎馬でも門を通過できるように高さもあり、寺の山門としては似合わない武骨な姿である。神戸城主本多家の定紋「立ち葵」が、太鼓櫓も大手門の瓦には付けられてある。 |
歴 史 | ||||
永禄11年、神戸友盛は織田信長の三男信孝を婿養子にして、信長と和睦する。元亀2年、神戸信孝は舅友盛を隠居させ、蒲生氏郷に預け当主となる。 天正8年、神戸信孝は神戸城の大改修を行い、五層の天守以下城を完成させた。信長が本能寺に倒れた後、天正10年に兄北畠信雄によって尾張野間で自刃させられた。その後神戸城主は目まぐるしく変わる。 慶長5年、関ヶ原で西軍に与した滝川雄利は改易(のち、許され常陸片野城主)され、代わって一柳直盛が50,000石で入るが、寛永13年に伊予西条に転封になった。 一柳氏の後には石川氏が三代続き、享保17年に石川総茂が常陸下館へ転封した後に、近江膳所の本多氏の分家本多忠統が河内西代より15,000石で入封する。忠統は、一度は城の形態を無くしていた神戸城を修築する。以後本多氏が小藩ながらも明治まで続いた。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | 近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅〜徒歩約10分 |
車 : | 東名阪道鈴鹿IC〜県道27号線〜県道8号線 |
駐車場: | 神戸城の無料駐車場を利用 |
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