和泉 岸和田城


お城のデータ
所在地 大阪府岸和田市岸城町
遺 構 模擬天守、櫓、門、石垣、曲輪、堀
形 式 平城 築城者: 小出秀政 築城年代: 天正13年


見 ど こ ろ
 岸和田城は、南北に走る南海電車と海岸沿いを通る旧国道26号線に挟まれた高台に築かれている。岸和田駅から下り電車に乗ると、車窓から戦後に建てられた岸和田城の三層模擬天守を間近に見ることができる。

 岸和田城天守は、江戸時代の文政10年に落雷で焼失したが、この天守は五層天守であった。焼失後に三層天守を再建が許されたが、実際には建てられずに二の丸にあった三層の伏見櫓が天守代用となっていたようだ。

 岸和田城の縄張りは、本丸・二の丸・三の丸が並郭・輪郭式に配した平城だ。本丸には五層天守が建てられ、土橋で結ばれた二の丸との通路側は隅櫓と連結され多聞櫓と櫓門によって防備を固めている。本丸を囲繞する堀と石垣の上に復元された隅櫓と多聞櫓の姿が結構絵になる。

 一方、本丸東側に埋門形式の虎口がある。本丸内側からは、板塀で塞がれていて見ることが出来ないけれど、堀側(岸城神社側)からは、様子がよく見ることが出来る。

 二の丸は城主居館が設けられた曲輪で、旧国道26号線に面してある堀と北西隅にある伏見櫓台まで続く石垣の眺めもいい。現在の市役所・岸和田高校グランドとなっている二の曲輪との間には極楽橋が架けられていた。

 本丸・二の丸以外にも岸和田城の遺構は残っている。岸城神社境内には家老中氏屋敷内の平櫓台が残っている。また、市役所と岸和田高校グランド内にも石垣の遺構がある。

 城見橋交差点側のマンション辺りが東大手門跡。ここから市立図書館〜岸和田高校グランド東側〜岸城神社辺りを散策すると、非公開となっているが武家屋敷の名残が随所に見ることができる。

 岸和田と言えば、「地車(だんじり)」が有名。城跡のすぐ近く(旧26号線沿い)に地車会館がある。一見の価値はある。この地車会館から西側へ一筋入ると紀州街道が南北に走る。街道沿いには本町地区の商家の町並みが残り、更に西側の通りが石垣筋と呼ばれる防潮石垣がかつては南北連なっていた。現在もその一部が残されていた。 


歴     史
 岸和田城は、建武年間に和田高家によって築かれた岸和田古城が前身、元亀から天正年間に松浦肥後守が城主の頃に新城の地に移った。

 天正13年、秀吉は中村一氏を近江水口へと移し、替わってに小出秀政が城主とした。秀政は秀吉の縁戚であった事もあり、文禄4年までに加増され30,000石を領した。

 秀政は文禄4年頃から岸和田城の改修に着手し慶長3年までに五層の天守などの櫓や城門・石垣が築かれ近世城郭へと変貌した。慶長9年に秀政が没すると長男小出吉政が但馬出石より入って50,000石を領し、慶長18年には嫡男吉英が襲封した。

 元和5年、大坂城を直轄地とした幕府は、豊臣系大名である小出吉英を但馬出石に移し、替わって丹波篠山から松平(松井)康重を54,000石で岸和田城に入れた。

 寛永17年、松平康重の子康映が播磨山崎へ転封し、岡部宣勝が摂津高槻より60,000石で入封する。宣勝は、入封後南北外堀を結ぶ浜手の石垣など外郭の整備を行っている。寛文元年に2代行隆が弟高成と豊明に合わせて7,000石を分知し、以後代々53,000石を領して13代長寛の時に明治を迎えた。


お城へのアクセス
鉄 道: 南海電鉄南海本線蛸地蔵駅〜徒歩約5分
 車 : 阪神高速湾岸線岸和田南IC〜府道39号線
駐車場: 本丸南側の市役所第2駐車場(無料)を利用


ひとくち MEMO
南海電車の車窓から間近に見える三層の天守が見えるお城。

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