越前 福井城


お城のデータ
所在地 福井県福井市大手3丁目
遺 構 曲輪、石垣、堀、復元櫓門、復元廊下橋、復元門、井戸
形 式 平城 築城者: 結城(松平)秀康 築城年代: 慶長6年


見 ど こ ろ
( 御本城橋と瓦御門 )
( 坤三重櫓台と多門櫓台 )
( 艮櫓台と多門櫓台 )
( 北不明御門と多門櫓台 )
 福井城の前身北の庄城は、南を流れる足羽川と支流吉野川の合流点に本丸を置き北側に二の丸・三の丸を配した縄張りで、神明神社(宝永4丁目)付近が北限で西側が町場が広がっていたと推定されている。

 松平秀康による北の庄城改築(築城)は、一説によると徳川家康自ら本丸・二の丸を縄張りし、三の丸他は吉田修理好寛が縄張りした云われ、北国の諸大名も手伝い普請をしたと伝えれる大規模な工事であったとか。新たに東側に荒川を掘って吉野川の流路を変え、旧流路を百間堀として利用し、更に荒川を外堀として東側へ曲輪を広げている。

 福井城の縄張りは、方形の本丸を中心に山里丸・二の丸・三の丸と二重の外曲輪が幾重もの水堀で隔てられた環郭式縄張りとなっている。さらに城下町をすっぽりと取り囲む惣構えも計画され、一部完成した加賀口門は北の前田氏に備え馬出虎口と厳重な構えであった。

 かつては幾重にも回らされた水堀も今では埋め尽くされ本丸周囲の内堀と舎人門がある市立郷土歴史博物館・養浩館庭園の北側に外堀が残るだけだ。旧吉野川を利用した百間堀も今はJR福井駅と化している。

 唯一残る本丸(現在は福井県庁)は、南側の御本城橋(木橋)を渡ると表門である瓦御門が開かれ、内桝形の石垣は現在取り払われている。北側には搦手門である北不明御門が設けられ、土橋によって二の丸と結ばれている。また、西側に山里丸と結ばれていた廊下橋と山里口門が現在復元されてる。

 本丸の周囲に高々と築かれた高石垣上には、天守(乾)を始め坤・巽三重櫓、二層の艮櫓が四隅に建ち、それらを結ぶように多聞櫓があった姿は、今は見ることが出来ないが想像するだけでわくわくしてくる。近世城郭の醍醐味か・・・。

 本丸北西角に天守台が残っている。切り込みハギの見事な石垣の天守台だ。天守台は、本丸塁上に一段高く築かれていて、その北半分ほどの所に四層五階の天守が建てられていたとか。天守台側の塁上に福井の名の発祥「福の井」がある。この井戸の北側には、福井地震で崩れた石垣が自然の力を見せつけられるかのように残っていた。 


歴     史
( 天 守 台 )
( 廊下橋と山里口門 )
( 外堀に面した土居と舎人門 )
 福井城は、天正3年に柴田勝家が築城した北の庄城が前身である。慶長5年、関ヶ原に勝利した徳川家康は、次男結城秀康(後、松平姓に復姓して五男直基が結城を嗣ぐ)を下総結城から越前68万石を与えて北の庄城に封じた。

 秀康は、慶長6年より城の改修(築城)を始め、北陸の諸大名にも築城御手伝が命じられた。慶長11年に城の落成したが、翌年に秀康が死去して城下町を囲む惣構えは、加賀口付近が完成したのみで未完に終わった。

 寛永元年、2代忠直が乱行のため豊後(津守館)に配流され、忠直の嫡子光長は越後高田259,000石へと移された。505,280石へ減封となったが忠直の弟忠昌が光長と入れ替わって越後高田から移り3代藩主となり、北の庄を福井と改名した。

 貞享3年、6代綱昌が幕府より「綱昌乱心につき越前国召し上げ」の貞享の大法が出され綱昌は蟄居となり、隠居していた5代昌親が改めて25万石を与えられた。昌親は、元禄16年に至って家格の回復がなり将軍綱吉より片諱を与えられ吉品と改称した。

 享保6年、支藩松岡藩主松平昌平が本家を継承して9代宗昌となった際、松岡藩を併合して30万石となり、13代治好が文化15年に2万石を加増され、越前家は32万石となった。

 越前松平家は徳川御家門筆頭として明治まで続くが、幕末の動乱期には、「幕末の四賢候」の一人に数えられる16代藩主松平慶永(春嶽)が活躍したことで有名である。


お城へのアクセス
鉄 道: JR北陸本線福井駅〜徒歩約10分
 車 : 北陸道福井IC〜国道158号線〜県道5号線〜県道11号線
駐車場: 福井県庁・福井駅周辺の有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
昔は福井藩庁、今は福井県庁、今も昔も政治の拠点のお城。

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