常陸 久下田城


お城のデータ
所在地 茨城県筑西市樋口字城山
遺 構 曲輪、土塁、空堀
形 式 平城 築城者: 水谷正村 築城年代: 天文14年


見 ど こ ろ
( 主郭西側の土塁と堀 )
 久下田城は、鬼怒川と五行川に挟まれた河岸段丘の北端部を利用して築かれている。現在、本丸が公園と稲荷神社の境内となっている。

 久下田城は、背後に五行川の段丘崖となっている東側を除いて、幅約15m×深さ約5mの空堀が三方を囲繞している主郭があり、その主郭をコの字に取り込む様に二の曲輪、更にその南側に三の曲輪が配置されたなっている。

 二の曲輪・三の曲輪は畑地と民家敷地となっているが、西側の林には土塁が残り、南の台地との間には空堀と土塁の一部が残っている。また、真岡鉄道の路線が久下田城の堀跡でもある。 


歴     史
( 主郭虎口脇の土塁 )
( 主郭の土橋 )
 久下田城は、天文14年に水谷正村によって築かれた。戦国時代になると、結城城主結城政勝が南下する下野宇都宮氏への備えとして、重臣の水谷正村に藤原秀郷が築いた上館の地に久下田城を築かせた。正村は下館城を弟勝俊に譲り、久下田城へ居城を移した。正村は久下田城を拠点に宇都宮氏と争い、下野芳賀郡田野城を攻略している。

 天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、天正12年頃より徳川家康を通じて豊臣秀吉にも書状を送り誼を通じていたこともあり、水谷正村は豊臣秀吉より47,000石を安堵された。この時正村は家督を弟勝俊に譲り、久下田城で隠居領として16,000石を領した。

 その後、久下田城は下館城の支城として水谷勝俊が受け継いだが、元和元年の一国一城令により久下田城は廃城となった。水谷勝俊の子勝隆は寛永16年に備中成羽へと転封となっている。


お城へのアクセス
鉄 道: 真岡鉄道久下田駅〜徒歩約15分
 車 : 北関東道真岡IC〜国道408号線〜国道294号線
駐車場: なし(本丸内に駐車スペースあり、城跡までの道が狭いので要注意)


ひとくち MEMO
深い空堀がブッシュの中に残っているお城。

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