武蔵 松山城


お城のデータ
所在地 埼玉県比企郡吉見町南吉見
遺 構 曲輪、空堀、竪堀、土塁、井戸跡
形 式 丘城 築城者: 上田友直 築城年代: 応永6年


見 ど こ ろ
( 本丸を囲む横堀 )
( 堀底から見上げる二の丸 )
( 二の丸から春日丸を見る )
( 三の丸西側の横堀 )
 松山城は、「吉見百穴」として有名な遺跡のちょうど南側にある小高い丘陵一帯に築かれている。市野川に東から半島状に突き出した比企丘陵の先端部を利用して築かれていて、三方を蛇行する市野川が取り囲んで天然の堀となった要害の地だ。

 松山城は、丘陵の山頂部に本丸を置き、東に向けて二の丸・春日丸・三の丸と直線的に並び、南側には笹曲輪・太鼓曲輪・帯曲輪、北側には兵糧蔵曲輪・腰曲輪・惣曲輪とが本丸〜三の丸までの主要曲輪群を取り囲む。更に丘陵東側に根古屋曲輪、南側に大堀を隔てて外曲輪が配され、これらの曲輪に付属する小さな腰曲輪から構成される多郭式の縄張りとなっている。

 本丸は、北東部に一段高いく凸型に突き出した櫓台がある。この櫓台をコの字に取り囲むように二の丸との間に掘られた空堀は、幅約15〜20m・深さ約10mもあり城内最大の規模を誇り見応えがある。

 二の丸は本丸を、春日丸は二の丸を「コの字」に囲い込むように配置され、二の丸と春日丸との間、春日丸と三の丸との間の空堀も幅も深さもある。二の丸には南と西に虎口が開かれている。南の虎口は空堀に細い土橋が設けられ、南側の帯曲輪と結ばれている。

 松山城の虎口は、枡形虎口などもなく以外と単純な虎口となっているが、春日丸南虎口は土橋と馬出が設けられている。二の丸南虎口も同様に帯曲輪が馬出状になった虎口であった。

 比企地方の小倉城杉山城菅谷館を巡った後で松山城を訪れた。松山城の縄張りが折れや矢掛の曲輪配置、馬出もある虎口などを見ると、小倉城のような石積みを用いて「見せる城」的要素もなく、杉山城のように小さな曲輪を巧みに配置した虎口などの技巧的要素も少なく、また菅谷館のように分厚い土塁に囲まれていない。

 しかし、この城は縦横無尽に掘られた空堀の威圧感は少々の技巧的要素など吹き飛ばしてしまう。「よくもここまで掘ったものだ」と感動する。


歴     史
( 笹曲輪の虎口 )
( 二の丸南虎口前の土橋 )
 松山城は、正慶2年に新田義貞が鎌倉幕府北条高時を攻める時に一時的に築かれ、その後応永6年に上田友直によって本格的に築城された。

 松山城は、室町時代から戦国時代にかけて幾多の戦乱の舞台となり、北条氏が武蔵へ勢力を伸ばしてくると、関東管領上杉氏方の拠点と一つとなった。

 その後、上杉謙信、武田信玄も松山城を攻め落城させているが、北条氏による関東一円支配が安定すると、松山城は上田朝直が北条氏に従い本領安堵され城主となった。
 
 天正18年、豊臣秀吉による小田原征伐の時、城主上田憲定は小田原城に籠城し、城代山田直安以下2,300余名が松山城に籠城したが、前田利家・上杉景勝等の大軍に包囲され落城した。

 家康の関東入国後は、松平家広・松平忠頼が居城したが、慶長6年に松平忠頼が遠江浜松城へと移封になり松山城は廃城となった。  


お城へのアクセス
鉄 道: 東武東上線東松山駅〜バス/百穴入口
 車 : 関越道東松山IC〜国道254号線〜国道407号線
駐車場: 吉見百穴の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
戦国時代に幾多の戦乱の舞台となったお城。

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