武蔵 滝山城


お城のデータ
所在地 東京都八王子市丹木町2丁目
遺 構 曲輪、馬出、土塁、横堀、堀切、土橋
形 式 丘城 築城者: 大石定重 築城年代: 大永元年


見 ど こ ろ
( 本丸の枡形虎口 )
( 中の丸南側の堀切 )
( 二の丸東馬出 )
( 二の丸西馬出 )
( 大馬出曲輪の横堀と土塁 )
 滝山城は、東西に連なる加住丘陵に築かれ、北は多摩川によって浸食された断崖となった要害の地だ。現在の城域は「都立滝山自然公園」となっている。

 滝山城は、丘陵の南側に谷戸が複雑に入り組んだ地形を巧みに利用した城だ。本丸を中心に大小の曲輪・帯曲輪を横堀によって分割し、角馬出・枡形虎口を多用して敵の進入路へ矢掛を徹底する極めて複雑な縄張りを持つのもこの城の特徴の一つだ。

 滝山観光駐車場の東隣にあるバス停横に滝沢城の立派な城石碑があり、パンフレットも置かれている。パンフの「滝山城城攻めマップ」が城の見どころポイントが記載されていてありがたい。

 バス停から天野坂を登るルートが大手道だ。大手道を小宮曲輪〜三の丸〜無名曲輪〜千畳敷〜二の丸〜中の丸〜本丸へと城内を探索するのが一般的ルートで、随所に説明板が設置されいる。

 滝山城の縄張りのポイントは「二の丸」だ。西からの大手道は、三の丸からコの字に折れ曲がった通路を経て無名曲輪の虎口へ、そして千畳敷から西の角馬出から二の丸へ。南の谷戸筋からは大馬出曲輪を経て南馬出から二の丸へ。東の鎌倉道からはカゾノ屋敷・刑部屋敷・信濃屋敷を経て東馬出から二の丸へ。全ての登城道が二の丸に集まるのだ。

 いずれの登城道の二の丸虎口前には「馬出」を設けている。どの馬出遺構が良く残っているが、中でも深い横堀と南馬出の細い土橋、そして大馬出曲輪と連続する二の丸南側の虎口は見応えがある。

 二の丸〜中の丸〜本丸、それぞれの曲輪間には深い堀切が構築され、中の丸から引橋を渡ると本丸枡形虎口が待ち構えている。二の丸の虎口は馬出で、本丸・中の丸の虎口は内桝形で防備を固めていた。

 滝山城の曲輪群も一般的な見学ルート以外は曲輪内は結構荒れた状態となっていたが、それでも国の史跡となっているだけに無名の山城や丘城の「ヤブ」に比べれば遺構確認が容易だ。

 中でも小宮曲輪枡形虎口手前から小宮曲輪の西側にそって横堀の堀底道を歩くと、小宮曲輪の切岸の高さや巧みに構築された矢掛の折れの縄張りを堪能することが出来た。もっともヤブ蚊やマムシなどが活動する時期にはお勧めできない。

歴     史
( 千畳敷の土塁と空堀 )
( 三の丸と無名曲輪の土塁と横堀 )
( 小宮曲輪の横堀と土塁 )
 滝山城は、大永元年に大石定重によって築かれたと伝えられている。(近年の研究により浄福寺城に居た北条氏照が永禄6年〜10年に築いて居城を移した説が有力視されている。)

 大石氏は、武蔵の有力国人で関東管領山内上杉氏に代々仕え武蔵守護代を務めていた。大石定重は、北条氏による武蔵国への勢力拡大に備えて滝山城を築き、それまでの居城高月城から移った。

 天文15年、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定が川越城の奪回を目指すが、「川越夜戦」で北条氏康に大敗して没落すると大石定久(定重の子)は北条氏の軍門に降った。永禄2年、大石定久(一説には大石定久の子綱周)は北条氏康の三男氏照を婿養子として大石氏の家督を譲った。

 永禄12年、北条(大石)氏照は武田信玄が小仏峠を越えて武蔵・相模へと侵攻すると、武田勢を高尾山麓甘里で迎撃させたが敗れ、余勢をかった武田勢に滝山城三の丸まで攻め込まれたが、氏照は滝山城を去ることなく城を守り切り小田原城の迎撃準備の時間を稼いだ。

 氏照は、滝山城を巡る武田氏との攻防の戦訓から滝山城西方の山岳に新城(八王子城)を築き、天正12年〜15年頃には居城を移した。それ以後滝山城は廃城となったと考えられている。


お城へのアクセス
鉄 道: JR中央本線八王子駅・京王電鉄京王八王子駅〜バス/滝山城趾下
 車 : 中央道八王子IC〜国道16号線〜国道411号線
駐車場: 滝山城観光駐車場(無料)を利用。


ひとくち MEMO
馬出と深い横堀を多用した縄張りを堪能できるお城。

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