山城 二条城


お城のデータ
所在地 京都府京都市中央区二条堀川西入ル
遺 構 曲輪、天守台、櫓、門、御殿、石垣、堀
形 式 平城 築城者: 徳川家康 築城年代: 慶長6年


見 ど こ ろ
( 東大手門 )
( 唐 門 )
( 二の丸御殿 )
( 本丸櫓門 )
( 天 守 台 )
( 本丸三重櫓台 )
( 南中仕切門 )
( 北中仕切門 )
( 桃 山 門 )
 天下人になった者がその武威を天下に示すため京都洛中に城を築いた。それが二条城だ。

 「二条城」と呼ばれる城は4回築城された。一つは織田信長が足利義昭のために築いた二条古城。(上京区武衛陣町にあり石碑が建てられている。)

 二つ目は室町幕府滅亡後に信長自らの屋敷として築き、後に誠仁親王に献じた二条御所。(本能寺の変で明智光秀によって落城)

 豊臣秀吉が天正14年に築いた聚楽第が三つ目の二条城。そして4つ目が徳川家康の築いた現在の二条城だ。家康の築いた二条城は、聚楽第の南隣にあり、その外郭の一部であった場所にあたる。

 家康が築いた二条城は、現在の二の丸に相当し、四町(約109m)四方の単郭で北西部に天守が築かれた。更に寛永の改修時に家康の築いた天守は淀城へと移築されたと云われている。

 寛永の改修で二条城は西側へと拡張された。拡張された二条城の縄張りは、現在の二の丸西側に内堀で囲まれた方形の本丸が築かれ、この本丸を囲繞するように二の丸が配されて単郭の城が輪郭式の城になった。

 【 本 丸 】
 本丸には、桂宮家の御殿が移築されている。武家の御殿と少し趣が違い、何となく雅やかな雰囲気のある建物である。本丸西南隅には、かつては伏見城天守(豊臣秀長の築いた大和郡山城天守を移築したと云われている)を移築した五層の天守が建てられていた。

 本丸には東西二ヶ所に虎口が開かれている。東側には本丸櫓門が残っていて、内堀に架かる橋はかつては二の丸御殿から通じる廊下橋であった。本丸西門は外枡形と内桝形と二重の桝形構造となった厳重な構であった。

 本丸を囲繞する石垣上には、今は全て残っていないが、北西隅には三重隅櫓、北東と南東隅に二重隅櫓があり、天守と各隅櫓は多聞櫓で結ばれていた。このため、本丸石塁内側は全て雁木石段となっている。

 【二の丸】
 堀川通りに面して二重の東南隅櫓と東大手門が現存している。東大手門から入城すると、武骨な城にはどうも似合わない築地塀、そして二の丸御殿の入口に贅を極めた唐門と、どこかの寺院に来たような錯覚を覚える。しかし、この二の丸御殿築地塀と北側の築地塀で東大手門内でしっかり内桝形を形成して虎口を固めている。

 二の丸御殿は、国宝に指定され御殿建築が唯一完存する貴重な遺構だ。将軍家の御殿だけに内部は豪華で贅を尽くしたものだ。この御殿で15代将軍徳川慶喜は、在京40藩を集めて大政奉還の決意を告げたのだ。家康が築城し、家光が増築した城で、最後の将軍15代慶喜が、この城で大政奉還をしたのも何かの巡り合わせか・・・。

 二条城には、御殿だけでなく建物の遺構も数多く残っている。東大手門・北大手門は儀礼時に開門されたと考えられており、西大手門が通常は使用されていたとか。そのためか西大手門は埋門形式で内桝形虎口を形成し、更に内側に櫓門(現在はない)が備えられた強硬な虎口であった。

 二の丸内にも東から西への移動を制限するように南北にそれぞれ中仕切門が設けられ、本丸東虎口への侵入を防ぐために桃山門・鳴子門が寛永の改修時に設けられたまま現存している。

 城内を見学したら、時間が許せば是非二条城外堀の周囲を一周することをお薦めする。

 北大手門から外堀の折れ(丁度この折れ西側から寛永の改修で拡張された部分)を見て西大手門へ。さらに二の丸南西隅櫓から南辺の折れ、南門(この門は明治時代に建てられた)を眺めながら二の丸南東隅櫓へ。

 東大手門前の観光客が絶え間ない光景に比べ、二条城を周囲をジョギングする人、のんびりと散歩を楽しむ老夫婦、そして私のようにお城をゆっくりと眺める人、またひと味違った二条城を楽しむことが出来る。 


歴     史
( 北大手門 )
( 西大手門 )
( 二の丸南西隅櫓 )
( 南  門 )
 二条城は、慶長6年に徳川家康によって築かれた。慶長5年の関ヶ原の合戦で勝利し天下を取った家康が、将軍宣下を受けるために洛中に築き、家康も信長・秀吉と同様に天下人となったこと示した。慶長8年にはこの二条城で将軍宣下の賀儀を行った。

 慶長19年の大坂夏の陣・冬の陣では家康・秀忠の本陣となり、豊臣氏滅亡後の元和8年に伏見城が廃城とあると、徳川幕府の京での拠点として重要度が高まった。

 元和9年、3代将軍家光の将軍宣下後に幕府が伏見城の廃城を決定し、松平定綱に淀城築城を命じた。同時に幕府は寛永元年から寛永3年まで二条城の改修を行った。

 この寛永の改修により現在のこる二条城の姿となる。徳川秀忠・家光父子が上洛し、改修なった二条城へ後水尾天皇が行幸された。この時の天皇行幸御殿は寛永5年の院御所造営時に移築され仙洞御所となっている。

 寛永2年から二条城代と二条在番が置かれ、元禄12年に二条城代は廃止されたが、幕末の文久2年には二条定番が置かれた。

 寛永11年に家光が上洛して以後、将軍家の上洛は無かったが幕末の文久3年・元治元年に14代将軍家茂が上洛して長州征伐の拠点としている。慶応2年には最後の将軍徳川慶喜が二条城で大政奉還を行った。

 大政奉還後二条城は朝廷の所有となり、明治元年には明治天皇が行幸され、明治4年に京都府へ移管された。明治14年に京都府庁舎完成後に宮内省の管理となり、二条離宮と改称され、明治26年に御所から旧桂宮御殿が本丸へ移築された。


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線京都駅〜地下鉄東西線二条城前駅 or バス/二条城前
 車 : 名神京都南IC〜国道1号線〜府道38号線
駐車場: 二条城前の有料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
京の都に時の支配者が次々と造ったお城、最後は徳川慶喜。

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