常陸 小幡城


お城のデータ
所在地 茨城県東茨城郡茨城町小幡字城ノ内
遺 構 曲輪、土塁、空堀
形 式 平城 築城者: 大掾義幹 築城年代: 応永24年


見 ど こ ろ
( 六の曲輪北側の横堀入口 )
( 後世に開けられた虎口 )
( 五の曲輪櫓台と横堀 )
( 三の曲輪西側の横堀 )
 小幡城は、寛政川右岸に面した小高い台地を利用して築かれている。西側を除く三方を寛政川とその支流が天然の堀となった要害の地形となっている。

 小幡城の縄張りは、南北58m×東西66mの台形をした主郭を中心に二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪・五の曲輪が同心円状に配置され、それぞれの曲輪が深い横堀によって区画され、土橋によって結ばれている。更に五の曲輪の北側に六の曲輪、更に六の曲輪の北から西にL字型に七の曲輪が配置され、大手が西に向けて開かれていた。

 当然、城内への敵の侵入を防ぐ縄張りだが、同時にこの城は、まるで城内に敵を引き入れて殲滅するように、縄張りされたようにも思える城なのだ。「穴蔵の城」とでも呼びたいような城だ。

 北の見学者用駐車場から七の曲輪東側の横堀入口から城内へと進む。ここからまるで迷路の様な堀底の道を歩く。

 六の曲輪を囲繞する横堀、後世に開けられた虎口を通って二の曲輪西側の横堀へと入る。行く手には二の曲輪から西へ向かって張り出した土塁が攻め手に矢を掛ける。この枡形状の横堀を通り抜けると、正面には主郭の高い土塁が攻め手に覆い被さるように現れる。

 鬱蒼と生い茂る林の中に、周囲は高さ6mはあろうか、両側に高々と築かれた土塁。その土塁と横堀によって複雑に入りくんだ曲輪の縄張り、その曲輪には櫓や武者走りなどが設けられ、堀底道を行く敵に容赦なく矢や鉄砲を放ったのであろう。建物の遺構はないが、このような光景が目に浮かび、今にも矢が飛んで来そうな錯覚してしまう。

 公園として一応は整備されているが、訪れる観光客も少なく、土塁を駆け上がり、薮の中をかき分けて遺構を見る、そんなお城めぐりファンに大満足感を惜しみなく与えてくれる。この城を訪れて、土塁の城のすごさ、迫力のようなものを肌で感じることができる城だった。  


歴     史
( 五と四の曲輪を繋ぐ土橋 )
( 主郭井戸跡と土塁 )
 小幡城は、応永24年に大掾詮幹の三男義幹によって築かれたとされているが、鎌倉時代に小田知重の三男光重が築いたとの説もある。大掾義幹は小幡氏を称して以後、小幡氏が代々居城していた。

 文明13年、南進して勢力拡大を図る水戸城主江戸通雅とこれを阻止する小田城主小田成治をはじめ大掾・宍戸氏らの連合軍と小鶴原で合戦となり江戸氏が勝利する。この時小幡氏は連合軍に与している。天文元年に江戸忠通が小幡義清を殺害して以後、小幡氏は江戸氏に臣従したと考えられている。

 永禄年間には江戸氏によって境目の城として整備され、江戸重通が天正13年に続いて天正16年の二度に亘って府中城の大掾清幹を攻めた府中合戦では、大掾氏攻めの拠点となっている。

 天正18年、豊臣秀吉から常陸国の支配を認められた佐竹義宣は、小田原征伐に参陣しなかった江戸重通を滅ぼし、次いで大掾清幹を滅ぼす。この時、小幡城も落城した。その後、慶長7年に佐竹義宣の出羽移封となるまで小幡城は、佐竹氏の直轄地となり和田昭為が管理している。


お城へのアクセス
鉄 道: JR常磐線水戸駅〜バス/茨城東高校
 車 : 北関東道茨城東IC〜国道6号線
駐車場: 小幡城の見学者用無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
分厚い土塁と深い空堀に感動してしまうお城。

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