美濃 小里城


お城のデータ
所在地 岐阜県瑞浪市稲津町小里字城山
遺 構 曲輪、天守台、石垣
形 式 山城 築城者: 小里光忠 築城年代: 天文3年


見 ど こ ろ
 県道20号線と県道33号線が交わる交差点のすぐ側に小里城への登城口があり、大きな案内板と石碑が道路脇にあるからすぐに判る。石碑のあるところからもう既に城域だ。

 山麓に大きく分けて3段に分かれた曲輪が配置され、大手門跡の左右には見事な石垣が残っている。最上段の曲輪が城主の御殿があった場所、御殿跡の石碑が立てられていた。

 背後に聳える険しい山容の城山山頂へは、御殿跡背後から登城道が通じているが道標はない。登城道を少し登ると、谷筋へ直進する道と尾根筋へ登る道との分岐点があり、ここを右折して尾根筋へと登ると山頂の詰の城まで遊歩道が整備されている。

 山頂の詰の城は、工事半ばで放棄された未完の城だ。二の曲輪予定地には切り出された石材が散乱していて、「築城現場とはこんな様子であったのか」と、ひと味違った城の風景を見ることが出来る。

 一の曲輪には、穴蔵を持つ天守台が築かれている。この天守台は、織田信長が安土城天守築城前に自ら指示して築かせたものだとか。完成していたならば、安土城天守よりも先に信長のイメージした天守が建てられたいたかも。想像しただけでワクワクしてしまう。


歴     史
 小里城は、天文3年に土岐康流の子小里光忠によって築かれた。元亀3年、信濃伊那谷を制した武田信玄は、美濃・三河に侵攻し、美濃諸将と美濃上村で合戦した。この合戦で明知城主遠山景行や小里光忠も討ち死にし、岩村城・明知城も武田氏が占拠した。

 天正2年、織田信長が岩村城攻略の向城として、東美濃の拠点鶴ヶ城を修築すると共に、小里光明に小里城の修築を命じた。天正3年、織田勢による岩村城奪還が成ると小里城修築も不要となり工事は中止となった。

 天正10年、本能寺で織田信長が討たれると、東美濃の諸将は金山城主森長可に反旗を翻したが、森長可によって掃討され小里城も攻め落とされた。小里光明は三河に逃れ徳川家康に仕えた。この落城後に小里城は廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR中央本線瑞浪駅〜バス/山の田
 車 : 中央道瑞浪IC〜県道20号線
駐車場: なし


ひとくち MEMO
山頂の詰の城は、工事半ばで放棄された未完のお城。

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