お城のデータ | |||||
所在地: | 兵庫県三田市屋敷町 | ||||
遺 構: | 曲輪、堀、移築門 | ||||
形 式: | 丘城 | 築城者: | 有馬村秀 | 築城年代: | 戦国時代 |
見 ど こ ろ | |||||
現在の有馬高校敷地となっている一帯が城跡だ。城の縄張りは、空堀で4つの曲輪を連郭式に区切った縄張りとなっていて、更に南側に南の曲輪が配され、主郭部と南の曲輪との間には水堀が設けられ、現在もその一部が残り往時の姿を今に伝えている。 三田陣屋は、三田城の南の曲輪に築かれ、現在は三田小学校の敷地となっている。小学校敷地東側に案内板と城石碑が建てられている。また、小学校から西に10分程歩くが、金心寺に下屋敷表黒門が移築されている。 陣屋時代の絵図を見ると、三田城は「古城」と呼ばれ一部が陣屋二の丸として利用し、御茶屋・泉水・築山・武具庫などがあったことが分かる。 熊野水軍を率いた九鬼氏が、「陸に上がった築いた水軍の城」が三田陣屋だ。陸に上がっても三田藩では江戸時代に陣屋西側に面した大池で舟を浮かべて水戦の訓練を続けていたとか。 |
歴 史 | ||||||
天正10年、豊臣秀吉の家臣山崎片家が23,000石を領して三田城入封。慶長5年に山崎家盛は因幡若桜へと転封になり、有馬則頼が20,000石で入るが翌年に没し、遺領は福知山城主有馬豊氏が相続して合わせ80,000石を領した。 元和6年、有馬豊氏は筑後久留米へと移り一時天領となったが、寛永2年に出羽上山から松平重直が入った。 寛永10年に重直は豊後龍王へと移り、代わって九鬼久隆が入封した。九鬼守隆没後の家督争いの結果、幕府は九鬼氏を三田と綾部の二家に分け、守隆の次男久隆を志摩鳥羽から三田36,000石に移した。 三田に入封した久隆は城主の格式であったが、元和一国一城令後のことでもあったため、車瀬城南の曲輪に陣屋を築いた。山間の三田に移った九鬼水軍の頭領九鬼氏は、その後13代続いて明治に至った。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR福知山線三田駅〜徒歩約15分 |
車 : | 中国道神戸三田IC〜県道95号線〜県道720号線 |
駐車場: | なし |
ひとくち MEMO | ||||||
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