遠江 諏訪原城


お城のデータ
所在地 静岡県島田市菊川字城山
遺 構 曲輪、土塁、空堀
形 式 台城 築城者: 馬場信春 築城年代: 永禄12年


見 ど こ ろ
( 大手北外堀 )
( 二の曲輪中馬出と三日月堀 )
( 三の曲輪大手馬出と土橋 )
( 本丸帯曲輪と土塁)
( 本丸内堀とカンカン井戸 )
 諏訪原城は、牧之原台地の先端部を利用して築かれている。西に広がる牧之原台地とは堀で仕切った平城の様相を持つ城であるが、東に大井川が流れ、JR金谷駅辺りから見る諏訪原城は、比高約150メートルほどある後堅固な城と云える。

 城跡は諏訪神社境内や雑木林や茶畑・民家敷地となっていたが、現在は雑木林となっていた一帯の樹木が切り払われて公園化されている。

 諏訪原城は、台地先端部に面して本丸を置き、本丸を扇の要として、二の曲輪・三の曲輪を前面に張り出し、更にその外側に大手曲輪・西曲輪・乾曲輪・亀甲曲輪(出城)が配された縄張りととなっている。

 【本 丸】
 本丸は、台地の突き出した先端部に築かれ、周囲には土塁が囲繞して築かれ北東隅に櫓台が築かれている。 東側の土塁下には一段低く土塁が残る帯曲輪がある。

 本丸西面に深い内堀が掘られ、二の曲輪との間には土橋で結ばれている。内堀は、水の手の谷筋へと続き、内堀は更に東側の帯曲輪下で土塁を伴う横堀となってる。

 【二の曲輪】
 二の曲輪は三の曲輪とは仕切り土塁で区切られた北側の曲輪曲輪で、V字型に深く掘られた外堀と北馬出と中馬出の二つの馬出と三日月堀が残っている。 復元された門も建てられ、木々も伐採されているので、武田氏の城郭の特徴である丸馬出の虎口と三日月の縄張りがよく分かる遺構だ。

 【三の曲輪】
 二の曲輪と仕切り土塁で区切られた曲輪で、西側に二の曲輪中馬出と同様の規模の三の曲輪大手馬出と土橋があり、馬出内は諏訪神社の境内となっている。ここは堀底へ降りることができ、堀底に立つと空堀の深さと幅のすごさを体感することが出来る。

 三の曲輪南側の虎口は、三の丸東馬出・東内馬出・南馬出と三つの馬出が組み合わされた複雑な縄張りとなっている。どの馬出も三の曲輪大手馬出に比べて規模が小さく堀も浅い。

 これらの馬出部分は武田氏が築いた金谷城の名残とも考えられ、深い堀を持つ馬出は武田氏の再築か、徳川氏による修築時の遺構と考えられる。発掘調査の結果、三の丸南側の馬出群は、薬研堀が箱堀に改修されていることが判明し、これは武田氏の城を徳川氏が改修したと考えられている。

 【大手曲輪】
 大手曲輪の曲輪内は現在は殆どが茶畑となっていている。かつては曲輪をコの字型に囲繞していた空堀が、南側は旧東海道側に、北側は二の曲輪中馬出への遊歩道脇にあり、堀の南側には土塁も残っていた。尚、大手曲輪以外の西曲輪や乾曲輪の外郭部は畑地や民家敷地となっていて、遺構は殆ど消滅している。


歴     史
( 三の曲輪東内馬出と三日月堀 )
( 三の曲輪南馬出 )
 永禄11年、駿河に侵攻して今川氏真を遠江掛川城へと追いやった武田信玄は、翌永禄12年に大井川を越え金谷台地に五砦を構える。その一つが金谷城(諏訪原城の前身)。 馬場信春に命じて築かせて守将としが、同年に徳川家康の家臣永井安盛・安倍定吉らが攻めて攻略している。

 天正元年、高天神城攻略を目指す武田勝頼は、馬場信春・武田信豊に命じて諏訪原城を再度築城した。天正2年には徳川方の小笠原長忠の守る高天神城を攻略する。

 諏訪原城は、この城から小山城相良城〜最前線で遠江の武田氏最大の拠点高天神城を結ぶ武田氏の遠江防衛ラインを形成する重要拠点の一城として位置付けされた。

 天正3年、徳川家康は武田方の海野・遠山氏らが守る諏訪原城を2ヶ月に及ぶ包囲戦を行い攻め落とした。家康は松平康親を城将として入れ、城名を牧野原城と改めた。天正6年から9年にかけて家康は松平家忠らを城代として入れ、城の修築を行った。

 天正9年に武田方の高天神城が落城、翌年には武田勝頼が滅びると城主松平康親は駿河三枚橋城へと移った。諏訪原城を明き城となり掛川城預かりとなったが、天正17年頃には廃城となったと推定されてる。


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線金谷駅〜バス/諏訪原城跡
 車 : 新東名島田金谷IC〜国道473号線〜県道381号線
駐車場: 諏訪原城の無料駐車場(約20台程度)を利用。


ひとくち MEMO
武田氏築城の縄張りが、今でも極めて良好に残っているお城。

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