お城のデータ | |||||
所在地: | 山梨県甲府市古府中町 | ||||
遺 構: | 曲輪、天守台、土塁、石垣、土橋、堀 | ||||
形 式: | 平城(館) | 築城者: | 武田信虎 | 築城年代: | 永正6年 |
見 ど こ ろ | |||||
躑躅ヶ崎館は、信虎の築城時は単郭式の縄張りであったが、北に御隠居曲輪・無名曲輪・味噌曲輪、西に西曲輪、南に梅翁曲輪(徳川氏増築)と時代と共に拡張された。(武田神社宝物館に躑躅ヶ崎館の復元模型がある。縄張りを知る上で大変参考になった。) 躑躅ヶ崎館は、主郭(武田神社境内)を低い土塁で東曲輪と中曲輪と分けられていたとか。この中曲輪北西角に天守台の石垣がある。(一般参拝者立ち入り禁止区域)この天守台西側の空堀下には土留めの石垣が良く残っている。 主郭にある東・北の虎口、西曲輪の南・北の虎口は、馬出が設けられていたとか。また、主郭東虎口には、2段に分かれた石垣によって築かれた土橋なっている。 躑躅ヶ崎館は、現在でも発掘調査が行われていて、訪れたときも主郭北側の虎口外側が調査中で、空堀の遺構が発掘されていた。 この時の説明では、北の虎口の馬出には空堀があったこと、更に時代によって虎口の構えが変わっていたことが発掘の結果分かったとか。武田神社から北側一帯に『お屋形様の散歩道』と称して散策のための遊歩道が整備されていた。 |
歴 史 | |||
信虎は、居館を川田館から躑躅ヶ崎館へと移した際、古府中の背後に位置する要害山に詰の城(要害山城)を築き、西に湯村山城、東に愛宕山砦(現県立科学館付近)、南に一条小山城(現甲府城)を配して、躑躅ヶ崎館の防備を固めた。 天正4年、長篠の合戦で敗れた武田氏最後の当主勝頼は、甲斐の防備を固まるため急遽要害山城の修築を命じているが、天正9年には新府城を築いて居城を移した。しかし、僅か3ヶ月で織田信長に攻められ甲斐源氏の嫡流武田氏はついに滅亡した。 天正10年、甲斐の支配者徳川家康によって再び甲斐の本城として躑躅ヶ崎館は使用され、新たな曲輪(梅翁曲輪)や天守台など築かれた。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR中央本線甲府駅〜バス/武田神社 |
車 : | 中央道甲府昭和IC〜県道5号線〜国道52号線/甲府駅前〜県道31号線 |
駐車場: | 武田神社前に参拝者用無料駐車場を利用 |
ひとくち MEMO | ||||||
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