丹波 黒井城


お城のデータ
所在地 兵庫県丹波市春日町黒井
遺 構 曲輪、石垣、土塁、空堀、堀切
形 式 山城 築城者: 赤松貞範 築城年代: 南北朝時代


見 ど こ ろ
 丹波三大城(八上城丹波八木城・黒井城)の一つに数えられている黒井城は、別名保月城と云われ、徳川家光の乳母の春日の局が、生まれたお城としても知られている。現在興禅寺の境内となっているところが下館で、山門から続く石垣の上には白壁の塀が堀の水面に映る様は城主の平時居館の様子を今によく伝えている。

 麓の無料駐車場から、猪口山山頂にある黒井城本丸を目指す。汗を流し、 休みながら登城道を登ること40分。途中、休憩方々石踏みの段、太鼓の段などの曲輪を見ながら登る。

 山頂に着くなり、東曲輪・三の丸の石垣が出迎えてくれる。これを見ると、ここまで登ってきた甲斐があったとまず思う。次に、城の遺構と本丸からの眺めに大満足。久しぶりに「山城に来た!」って感じだ。 

 本丸以下の山頂部の遺構は、木々も切り払われ下草も一応刈られて整備されているので、石垣を含めて戦国山城の遺構が良く残っている。

 黒井城の縄張り(山頂部)は、東曲輪・三の丸・二の丸・本丸・西曲輪と連郭式に並び、二の丸と本丸の間には空堀が設けられている。山頂部の規模はさほど大きくないが、山頂部に続く尾根に西の丸・千丈寺砦などの出丸や砦あが築かれ、猪口山全体が一大城塞となっている。  


歴     史
 黒井城は、南北朝時代に赤松貞範によって築かれたと云われている。その後、信濃から丹波に移住した芦田氏の一族荻野氏が春日部荘に土着して土豪化し、戦国時代の天文年間には荻野秋清が黒井城主であった。

 戦国時代に八上城の波多野氏と八木城の内藤氏と丹波を三分した赤井氏は、丹波氷上郡を中心に勢力を誇った有力国人であった。

 赤井直正は、後屋城主赤井時家の次男に生まれ、朝日城主荻野十八人衆の盟主として迎えられ荻野姓を名乗る。萩野氏庶流を継いだ直正は、天文23年に黒井城の荻野秋清を倒して黒井城主となった。

 天正3年に織田信長による丹波攻略が開始され、明智光秀を主将とした織田勢が丹波へと侵攻する。天正4年には赤井直正の黒井城を攻められるが、八上城の波多野氏との連携して織田勢を敗走させた。しかし、天正6年に直正が病没してしまう。

 天正7年に八上城を攻め落とした明智光秀は、同年直正の子直義・弟直家ら赤井一族が立て籠もる黒井城を再び攻め、これを落城させた。

 丹波平定後、明智光秀は、春日の局の父斎藤利三が城主となる。天正10年に本能寺の変を起こし山崎の合戦で光秀が滅びた後、秀吉の家臣堀尾吉晴が城主となる。天正13年に吉晴が近江佐和山へと移り、その後城は廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR福知山線黒井駅〜徒歩10分(登城口)
 車 : 舞鶴道春日IC〜国道175号線/六反田
駐車場: 登城口前の黒井城無料駐車場(10台程度)を利用


ひとくち MEMO
汗を拭きながら登ったところには草むした石垣が出迎えてくれるお城。

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