お城のデータ | |||||
所在地: | 福井県小浜市伏原 | ||||
遺 構: | 曲輪、石垣、土塁、堀切、畝状竪堀 | ||||
形 式: | 山城 | 築城者: | 武田元光 | 築城年代: | 大栄2年 |
見 ど こ ろ | ||||||||||
戦国時代、和泉の堺港と並ぶ国際港であった小浜津を制することが若狭一国を制することになったと考えれば、この地に城を築き守護所を設けるのがすごく当然のことだったのだろう。 後瀬山城は山頂部に主郭を置き、北と西の両方向に伸びる尾根筋には連郭式に曲輪群が配置され、主郭背後の南方向には堀切を隔てて二の曲輪があり、更に南の尾根筋には竪堀と堀切よって遮断線を構築している。北尾根の曲輪群と西尾根の曲輪群を結ぶように北斜面には「谷の横道」と呼ばれる帯曲輪が幾段も設けられている。 西尾根曲輪群は、西側斜面から北側斜面に畝状竪堀群と長大な竪堀によって比較的緩やかな斜面に対する防御が施されてる。一方、東側は斜面が急なこともあるが曲輪や竪堀等の防衛ラインは構築されておらず、東麓の築かれていた別所居館(現在の発心寺境内一帯)が東の守りであったと考えられている。 国道27号線のトンネルが後瀬山の下を貫通している。城跡への登城道はトンネル東側入口の脇にある小さな神社(愛宕神社)から山頂へと通じている。滑りやすく、かなり急峻な登城道を登ること約15分程で北尾根四の曲輪群頂上部に出る。この曲輪の北には堀切と土橋の遺構が良く残ってる。 更に北尾根に続く三の曲輪群を右手に見ながら登れば主郭の虎口に至る。山頂の主郭部は三段に分かれていて、最上段には京極高次正室の初(淀君の妹常高院)が勧進した愛宕神社の社殿がある。上段(三段目)の南側を除く三方に残る石垣の遺構は見応えがあった。 主郭から崩落した石材が散在する堀切を隔てた二の曲輪には山上御殿があった。発掘調査により御殿跡の礎石や瓦が出土し、ここが丹羽氏か浅野氏による改修が施されたと考えられている。 後瀬山城は、お城ファンならば曲輪・石垣・土塁等を見て大満足間違いなし。ただし、山頂からの見通しはすこぶる悪い。眺めを期待して登ると確実に裏切られる。(念のため・・・) |
歴 史 | ||||||||
大永6年、元光は12代将軍足利義晴を要した管領細川高国に与して軍勢を率いて上洛する。翌年阿波三好勝永と柳本賢治ら丹波勢と桂川の戦いに細川高国方は大敗し、武田勢も有力な家臣を数多く失った。この大敗を境に武田氏の衰退が始まる。 武田元光−信豊−義統−元明とその勢力は衰退の一途をたどる。その間に高浜城主逸見昌経らの反乱、越前朝倉氏の侵攻があり、ついに永禄11年武田元明は越前に捕らわれの身となり、若狭は事実上朝倉氏の支配地となった。 天正元年、朝倉氏が滅亡すると丹羽長秀が織田信長より若狭一国を与えられ、若狭衆は長秀の与力として付けられた。天正9年に織田信長に赦免された武田元明は若狭石山城3,000石を与えられ若狭衆として長秀の与力となった。 天正10年に本能寺で織田信長が横死すると、武田元明は若狭守護の回復を図り、明智光秀に与して丹羽長秀の居城佐和山城を攻め落としている。しかし、山崎の合戦で光秀が敗死すると元明は長秀によって近江海津で謀殺され若狭武田氏は滅亡した。 天正15年、丹羽長重は島津氏攻めでの軍記違反により若狭を没収され、浅野長政が若狭8万石を与えられ後瀬山城へ入る。文禄2年に長政は甲斐府中へと移り、代わって木下勝俊が入り81,500石を領した。慶長5年、勝俊は関ヶ原の役では伏見城の松の丸守将であったが、開戦前に退去して北の政所の屋敷に入ったこと事で戦後に改易となった。 慶長5年、近江大津城に籠城して西軍の侵攻を遅らせた戦功により、京極高次が若狭一国85,000石を与えられ、翌年には近江高島郡内で7,000石を加増された。この年、高次は小浜城の築城を開始して後瀬山城は廃城となった。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR小浜線小浜駅〜徒歩約300m(登り口) |
車 : | 舞鶴若狭道小浜IC〜県道24号線〜国道162号線 |
駐車場: | 登城口の愛宕神社前の無料駐車場を利用 |
ひとくち MEMO | ||||||
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