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( 本丸北側の翳櫓台 ) |
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( 本丸 西北隅の乾櫓台 ) |
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( 本丸西側 西櫓台と埋門 ) |
小浜城は、慶長6年に京極高次によって築かれた。北近江六郡の地頭となった京極氏信に始まる名門京極家も戦国時代は衰退し、高次は家臣筋浅井氏の居城小谷城京極丸で生まれている。
高次の妹竜子は豊臣秀吉側室松の丸殿、正室は旧臣浅井長政の娘初(常高院)、北近江の名家京極家の名望を利用したい秀吉の思惑から高次は大名として取り立てられ、文禄4年には近江大津城主となり6万石を与えられた。
慶長5年、関ヶ原の合戦では東軍に与して毛利元康・立花宗茂らの西軍を近江大津城で足止めした戦功により、若狭一国85,000石に加増されて若狭守護武田氏の居城であった後瀬山城に入り、翌年には更に近江高島郡内で7,100石を加増された。
慶長6年、高次は後瀬山城を廃して雲浜の地に新城を築き始めた。しかし、幕府の課役や大阪の陣などでなかなか工事が進まず、完成を見ずに2代忠高は出雲松江へと加増されて移る。
代わってと、寛永11年に武蔵川越より酒井忠勝が113,500石で入封する。忠勝は、京極氏の築城工事を継続し三層の天守も完成させた。実に着工から41年の年月を数えた。その後、若狭酒井氏は明治まで14代この地を動くことはなかった。 |