下野 西明寺城


お城のデータ
所在地 栃木県芳賀郡益子町益子字高館
遺 構 曲輪、土塁、堀切
形 式 山城 築城者: 益子氏 築城年代: 鎌倉時代


見 ど こ ろ
 西明寺城は、八溝山地の一角にある高館山山頂部を利用して築かれている。高館山西中腹には、板東三十三ヶ所観音霊場第二十番札所西明寺が中腹に建つ。

 高館山山頂部に置かれた主郭は、約32m四方で西側を除く三方に土塁が残り、北側の土塁には中央部に喰違の虎口が開かれ、北側に長方形をした二の曲輪が配置されている。この二つの曲輪を中心として、北・北西・西・南・南東の5方向へと伸びる尾根筋を削平して階段状に曲輪群が配置された縄張りとなっている。

 西明寺から高館山山頂へと登る途中にある高館山展望台が、権現平と呼ばれる曲輪跡ある。ここが益子氏築城当初の主郭部であった。それが高館山全山が城域となるまで拡張せいびされて、山頂部に残る曲輪などは、殆どが戦国時代の遺構であるとか。


歴     史
 西明寺城は、鎌倉時代に益子氏によって築かれた。益子古城の詰の城として徐々に広大な山城へと拡張整備されたと考えられている。

 南北朝時代、延元4年に南朝方の春日顕国が北朝方の宇都宮氏を攻め、八木岡城・西明寺城を落とし、翌年には飛山城まで落城させた。西明寺城は、常陸大宝城関城などと共に南朝方の拠点の一つに数えられたが、康永年間に北朝方に大宝城などの南朝の拠点が攻略されたのと前後して西明寺城も北朝方に落とされたと考えられている。

 鎌倉時代から室町時代まで宇都宮氏の重臣として活躍した益子氏は、戦国時代になるとその独立性から主家宇都宮氏と対立する。天正17年、主家に叛旗を翻した益子家宗を主家宇都宮国綱が芳賀高武・多功綱継らと謀って攻め、家宗は討死し益子氏は滅亡した。


お城へのアクセス
鉄 道: 真岡鉄道益子駅〜タクシー約15分
 車 : 北関東道真岡IC〜国道408号線〜国道121号線〜県道262号線
駐車場: 西明寺城の見学者用無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
紀党を率いて宇都宮氏を支えた益子氏の詰の城。

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