お城のデータ | |||||
所在地: | 山上 兵庫県洲本市小路谷 山下 兵庫県洲本市山手1丁目 |
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遺 構: | 曲輪、模擬天守、石垣、堀 | ||||
形 式: | 平山城 | 築城者: | 安宅治興 | 築城年代: | 永正・大永年間 |
見 ど こ ろ | ||||||||||||
【山頂の城】 洲本城は、三熊山の最高所に本丸を置き、東の尾根筋に二の丸・東の丸・武者溜と梯郭式に曲輪が並び、三熊山山頂部から細尾根隔てた西側のピークには西の丸と呼ばれる独立した曲輪が配された縄張りとなっている。 本丸は、ほぼ方形の高石垣で囲まれ、大石段を登ると南に桝形虎口が開かれ、天守台南下にも搦手口の桝形虎口が設けられている。現在、本丸北西隅に築かれた天守台には昭和4年に三層の模擬天守が建てられている。 天守の姿を描いた資料等は伝わっていないが、築城当初にはどのような天守が建てられていたのだろうか。天守台と本丸北面のの櫓台の構造から推定して、北東隅の隅櫓と多聞櫓で結ばれた連結天守であったと考えられる。 本丸東側の二の丸には城主の山上居館があったと推定され、発掘調査で多数の脇坂氏の家紋瓦が出土している。本丸南側には南の丸が配され、大手から続く桝形虎口を見下ろす南東隅櫓の高石垣は見応えがある。 本丸・二の丸東側には、東の丸と囲まれたように水の手である用水地と井戸がある。東の二の門を経て東一の門までの間が武者溜と呼ばれる広い曲輪が配されてる。 武者溜りの北西隅から北側の急斜面に築かれた「登り石垣」がよく見える。本丸天守下の帯曲輪からも一条の「登り石垣」が築かれている。 近江彦根城や伊予松山城にも登り石垣の遺構はあるが、洲本城の登り石垣の遺構は、階段状の石垣となっていて東の登り石垣は30段、西の登石垣は22段もある、この城の特徴的な遺構だ。 【山麓の城】 三熊山北麓に江戸時代初期に「由良引け」に際して改修されて徳島藩の洲本御屋敷と称され、現在は文化資料館・検察庁・裁判所の敷地となっていいる。 御屋敷の縄張りは、三熊山麓部をコの字型に堀で囲み、北面の中央部に土橋と桝形虎口が設けられていた。城代稲田氏の屋敷は、居館の西側にある八幡神社境内南側の住宅地一帯にあり、向屋敷が念法寺境内となっている。 |
歴 史 | ||||||||||
安宅八家衆の筆頭洲本安宅氏は、三好元長の子冬康を養子に迎えた。冬康は、天文年間には兄三好長慶・義賢と共に畿内に進出して淡路水軍を率いて三好党の一翼を担ったが、永禄7年に河内飯盛山城で兄長慶よって殺害された。 冬康の没後、家督を継いだ嫡男信康は、元亀元年には石山本願寺に与して上洛した足利義昭・織田信長に反抗した。しかし、元亀3年には将軍義昭に降伏し信長に従った。 天正6年に信康が没し、弟清康が家督を継ぐ。清康は毛利方へ寝返ったため、天正9年には羽柴秀吉・池田元長によって攻められ開城して降伏した。清康は信長から本領安堵されたが、同年病没して洲本安宅氏は滅亡した。 天正10年、本能寺の変が起きると羽柴秀吉は淡路を制し、四国の長宗我部氏に備えて仙石久秀を洲本城へ配した。天正13年には秀久に代わって脇坂安治が3万石を領して洲本城主となり、秀吉直轄領の代官も命じられた。 安治は、洲本城を中世城郭から石垣を多用した近世城郭へと大改修する。慶長5年の関ヶ原の合戦では西軍に与していたが、小早川秀秋と共に東軍へ寝返り本領を安堵された。慶長14年には伊予大洲へと移封となった。 慶長15年には池田忠雄が63,000石を領して岩屋城に入り、同18年には由良成山城を築いて居城とした。元和元年、池田忠雄は兄忠継の養子となって備前岡山城主となる。淡路一国は大坂の陣の功により、阿波徳島城主蜂須賀至鎮に加増された。 寛永7年、蜂須賀忠英は淡路の拠点を由良から洲本へと移すことが幕府から許可され、寛永12年まで由良城代稲田示稙を中心に「由良引け」が行われ、洲本城山麓部の居館曲輪の改修と城下町が建設された。 洲本城代稲田示稙が幕府からも淡路仕置を任命され以来、稲田氏が14,000石を領して代々城代を務め16代邦稙の時に明治を迎えた。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | 大阪・神戸三宮から淡路交通高速バスで洲本行き終点 |
車 : | 神戸淡路鳴門道洲本IC〜国道28号線 |
駐車場: | 山頂部大手門跡脇(馬屋曲輪跡)が無料駐車場。(約20台) |
ひとくち MEMO | ||||||
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