伊予 松山城


お城のデータ
所在地 愛媛県松山市丸之内
遺 構 天守、櫓、門、曲輪、石垣、堀
形 式 平山城 築城者: 加藤嘉明 築城年代: 慶長5年


見 ど こ ろ
(本丸本壇 天守と二ノ門南櫓)
(本丸本壇 小天守と南隅櫓 )
(本丸本壇 北隅櫓と十間廊下 )
( 城内で一番高い南曲輪の高石垣 )
(本丸 中ノ門跡から見る太鼓櫓 )
( 本丸南曲輪 筒井門 )
( 本丸 太鼓門と太鼓門続櫓 )
( 本丸 巽 櫓 )
( 本丸 馬具櫓 )
(本丸 紫竹門)
 松山城は、「ともかく古風な城」そんな感じがする。櫓や塀が板張りなためなのか。戦国の世の香りをそこかしこに漂わせている。

 勝山山頂部の二つの峰を削平して築かれた歴然とした「山城」全体を本丸とし、勝山の南西山麓部に城主居館が建てられた二の丸を置き、更にその外側に外堀と土塁に囲繞された家臣団の屋敷があった三の丸が配置されている。更に勝山の北麓に北曲輪を設け、東側の東雲口にも東曲輪があり江戸時代には家老屋敷となっていた。

【本 壇】
 勝山山頂の本丸は南北に細長く、北側に三層の天守を中心とした天守曲輪である本壇が設けられている。三層の大天守と二層の小天守・南隅櫓・北隅櫓を多聞櫓で連結した連結式天守となっている。天守東側には天守への経路を厳重に守るように一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓・天神櫓が配置されている。

【本丸大手】
 二の丸小谷門から登城道を汗をかいて登ったところに大手門跡へとたどり着く。大手門跡を抜けるとかつて待合番所があった帯曲輪で、東側には東雲口からの登城道へと繋がる揚木戸門跡がある。この帯曲輪を見下ろす南曲輪の石垣は高さ17mもあり城中一の高さを誇る。

 大手門跡から中ノ門跡へ。ここから見る高石垣を太鼓櫓、背後には大天守と小天守が見え、汗をかいて登った者へ「よくぞ来た」とばかりに出迎えてくれる。更に戸無門を潜ると筒井門と隠門が行く手を阻む。現在の筒井門は復興されたものだが、築城には松前城から移築された門であったとか。

 筒井門を経て南曲輪へと入る。正面には太鼓櫓・太鼓門南続櫓・巽櫓が一直線に並び、本丸への最後の防衛線を構築している。巽櫓北側には深さ約40mもある井戸が遺構が残る他、復興された馬具櫓・艮門と艮門続櫓もある。

【本丸搦手】
 本壇下の紫竹門を抜けて本丸西側に乾門東続櫓・乾門・乾櫓・野原櫓と並ぶ一帯が「山城」部の搦手を構成している。今は無いが乾一ノ門跡から乾門へ。この辺りから見る光景は、上からの威圧を感じる搦手の建物群に圧倒されてしまう。

 この乾櫓は、築城当時から現存する櫓で、乾門・乾門東続櫓・筒井門と共に加藤嘉明の旧居城松前城から移築されたもの。また、野原櫓は日本で唯一残存望楼型二重櫓で、乾櫓と共に松山城中で最古の建物だとか。

【二の丸】
 三の丸から黒門〜栂門〜槻門と二の丸への関門が設けられている。中でも槻門は本丸への登城口を兼ねた二重の櫓門であったとか。今も残る門跡の石垣は、松山城で一番堅固な門であったことを今に伝えている。

 槻門を抜けて左手へ向かえば、二の丸御殿正門前から小谷門をへて本丸大手門へと通じる黒門口登城道。右手に向かえば二の丸多聞櫓と二の丸御殿への門がある。

 二の丸には4代松平定直が居館を三の丸へと移す前まで城主居館が建てられていた。現在は御殿の建物は無いが庭園が残り、御殿の間取りが再現されている。二の丸には、昭和59年の発掘調査で発見された大井戸遺構がある。これは東西18m×南北13m、深さ9mもある防火用設備であった。大井戸の東半分まで表御殿がせり出して建てられていたことも発掘調査で判明している。

【登り石垣】
 松山城の特徴の一つ、山麓の二の丸と山頂の本丸を結ぶ様に築かれた登り石垣の遺構があげられる。朝鮮出兵時に倭城での経験を生かしたもので、近江彦根城淡路洲本城伯耆米子城などにも遺構がある。

 松山城の登り石垣は、山麓の二の丸栂門から北は本丸搦手の乾門下まで、南は、二の丸巽櫓から本丸大手門下まで登り石垣が築かれているのも全国的特色のある縄張りとなっている。県庁裏の登城道に沿って南側の登り石垣の遺構は良く残っていた。

【三の丸】
 三の丸は、勝山南西麓に東西約480m×南北530mの広大な曲輪で周囲には幅の広い水濠と高さ約5mの土塁が巡らされていた。三の丸の虎口は北と東に設けられ、北御門を入ると、かつては東西約150m×南北約108mの広さがあった三の丸御殿が建てられていた。御殿南側は「中ノ町」と称される上級家臣達の屋敷が建ち並んでいた。現在は北御門や御殿・武家屋敷は消滅しているが、東御門跡には二層櫓門の石垣の一部が残されていた。


歴     史
(本丸搦手 野原櫓 )
(本丸搦手 乾櫓と乾門東続櫓 )
(本丸搦手 乾 門 )
(二の丸 多聞櫓 )
( 二の丸 大井戸遺構 )
( 南側の登り石垣 )
 松山城は、慶長5年に加藤嘉明によって築かれた。嘉明は、豊臣秀吉に仕え天正11年の賤ヶ岳の合戦では「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられ、天正13年の四国攻めでは小早川隆景の与力として伊予平定に参陣して、翌年には四国攻めの戦功により淡路志知15,000石を与えられ大名に列した。

 文禄4年、加藤嘉明は淡路水軍を率いて参陣した文禄の役での戦功により6万石に加増され、淡路から伊予松前(正木)城を居城として移った。慶長5年、東軍に与した加藤嘉明は関ヶ原の合戦での戦功により、加増され伊予半国20万石を与えられた。

 加藤嘉明は、それまでの居城松前城が20万石を太守の城としては手狭となったため、慶長6年から幕府の許可を得て、翌年より道後平野の独立丘である勝山に築城を開始した。嘉明は勝山築城に先立ち足立重信に命じて伊予川・石手川の大改修を行い、城下町の治水と近郷の灌漑用水の確保を図っている。

 慶長8年、加藤嘉明は家臣団を引き連れ松前城から勝山の新城へと移り、城下を松山と名付けられたと伝えられている。その後も築城工事は継続されるが、嘉明は松山城の完成を見ることなく、寛永4年に会津若松40万石へと移封となった。

 寛永4年、会津若松城主蒲生忠郷が継嗣なく死去する。忠郷の母が徳川家康の三女振姫であったことから、蒲生家は断絶を免れて出羽上山4万石を領していた忠郷の同母弟忠知が家督を継ぎ、36万石を減封となったが伊予松山24万石を与えられた。

 蒲生忠知は、松山城二の丸の整備など松山城築城に注力したが、寛永7年には寛永の蒲生騒動と呼ばれる減封に伴う家臣団の抗争が勃発し、幕府による裁定により重臣への重い処分が下されている。寛永11年、忠知は将軍上洛の準備のため在京中に病死して、蒲生家は継嗣なく断絶となってしまう。

 寛永12年、松平(久松)定行が15万石で伊勢桑名から入封する。寛永16年、定行は幕府の許可を得て天守・櫓・石垣などの大改修を行った。この時に五層の天守を三層へと改築されたと云われている。

 貞享4年、4代定直は三の丸に御殿を新築して二の丸御殿から政務の中心を移し、二の丸御殿は世嗣の居館等に利用されている。

 天明4年、9代定国の時に天守に落雷して焼失してしまう。同年に再建許可を得るが財政難により再建普請に取りかかれなかった。幕末の嘉永7年、12代勝善の代になって念願の天守再建がなされた。この天守が今見ることができる三層天守である。
 
 寛永12年に松平定行の入封以後、松山松平家は代々この地を動くことなく16代定昭の時に明治を迎えた。幕末の慶長3年に定昭は御家門ながら老中に就任したが、大政奉還があり老中を辞職している。


お城へのアクセス
鉄 道: JR予讃線松山駅〜伊予鉄道/大街道
 車 : 松山道松山IC〜国道33号線
駐車場: 松山城周辺の有料駐車場を利用(二の丸史跡庭園の見学者駐車場は無料)


ひとくち MEMO
連立形式の現存天守があるお城。

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