お城のデータ | |||||
所在地: | 鳥取県米子市久米町 | ||||
遺 構: | 天守台、曲輪、石垣 | ||||
形 式: | 平山城 | 築城者: | 吉川元春 | 築城年代: | 天正年間 |
見 ど こ ろ | ||||||||
近世米子城は、3つの城からなる城だ。湊山に築かれた主郭部(本丸)、湊山の北側に突き出すように連なる丸山に築かれた内膳丸、そして中世米子城が築かれていた飯山の出丸だ。 湊山山頂の本丸は、大きく分けると上段に天守曲輪と下段に副郭である水の手曲輪と上下二段に分かれ、北に遠見曲輪、東に番所曲輪、東から南にかけて表曲輪と主郭部三方に帯曲輪が配されている。 表冠木門を潜り石段を右手に登る。正面にかつては四重の小天守が建っていた高石垣が行く手を阻む。ここから更につづれ織りに続く石段を登る。そこには天守曲輪の表門である鉄門が待ち構えている。 そして、今は石垣しか残っていないが、お城好きにとっては至高の光景がそこにあった。中村氏が建てた天守、吉川氏が建てた天守、大小二つの天守が並立して建っていた。しかも明治に廃城となるまでその姿があったのだ。(古写真でみることができる) 丸山の内膳丸は、尾根筋を二段に削平した長方形の曲輪で、見ようによっては出城的要素が強い。事実、慶長8年に中村氏家老横田内膳が家中の主導権争いで暗殺され、内膳の子主馬之助が一族と共に内膳丸に籠城する事件が起きている。 湊山と丸山と飯山、これらの3つの山に挟まれた北側山麓に二の丸・三の丸が築かれ、三の丸を囲繞する堀(現在は埋められてしまった)には海水が引き入れられ、中海に面した西側には深浦と呼ばれる船手曲輪があった。 |
歴 史 | ||||||||
永禄9年に尼子義久は毛利元就の軍門に降り、出雲・伯耆の地は毛利氏の領国となる。永禄11年に尼子勝久を擁して尼子氏再興を図って山中鹿之助らが出雲で挙兵し、元亀2年に尼子氏によって攻められ城番福頼元秀が討死した。 天正6年に播磨上月城で尼子勝久が自刃して尼子氏が再び滅ぶと、米子城は吉川元春の支配下に入り、吉曳吉種が城代となっている。 天正19年、吉川元春の三男広家が伯耆・出雲・隠岐・石見・安芸でで14万石を与えられ出雲富田月山城へ入るが、この城が内陸部で不便なため、中海に面した米子に新城築城を吉曳吉種に命じた。 吉川広家が慶長3年まで文禄・慶長の役で出兵していたため、米子城の築城工事は中断され、慶長5年に関ヶ原で敗れた毛利輝元は防長二国に移ると、吉川広家もまた米子城未完のまま周防岩国へと移った。 代わって駿府城主中村一忠が伯耆一国175,000石を領して入城し、工事半ばの米子城築城を継続し、四層五階の大天守を築いて米子城を完成させた。入封時、一忠は12歳の幼少であったため、家老で一忠の義理の叔父横田内膳村詮が采配を振るった。 慶長14年、中村忠一は20歳の若さで急逝、嗣子無く中村氏は断絶した。米子城へは加藤貞泰が6万石で美濃黒野から入封するが、元和3年に大坂の陣で戦功により加増され伊予大洲へと移った。 加藤氏転封の後、因幡・伯耆は鳥取城主池田光政が領し、米子城へは池田由之(後、下津井城主)が城主となった。寛永9年、備前岡山城主池田忠継が没し、跡を継いだ光仲が幼少であったため、因幡と備前の国替えがあり池田光仲が備前岡山から鳥取に入ると、米子へは筆頭家老荒尾成利が15,000石を領して入り、荒尾氏が代々相続して明治に至った。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR山陰本線米子駅〜バス/医大前、久米町 |
車 : | 米子道米子IC〜国道9号線 |
駐車場: | 湊山公園の無料駐車場を利用。 |
ひとくち MEMO | ||||||
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