因幡 太閤ヶ平 秀吉本陣



お城のデータ
所在地 鳥取県鳥取市百谷字本陣山
遺 構 曲輪、土塁、横堀
形 式 山城(陣城) 築城者: 羽柴秀吉 築城年代: 天正9年
鳥取城山下ノ丸 鳥取城山上ノ丸 鳥取城外神砦 太閤ヶ平秀長陣

見 ど こ ろ
( 本陣から見る久松山鳥取城 )
( 本陣の大手虎口 )
( 本陣内から見る東側土塁 )
( 本陣南東部の横堀と土塁 )
 秀吉が第二次鳥取城攻めに際して久松山(鳥取城山上ノ丸)の東に位置する太閤ヶ平(本陣山)に陣を構えた。

 本陣山へは幾つも登山ルートがあるが、鳥取市歴史博物館(やまびこ館)・東照宮鳥居前から本陣山の通信設備用のアスファルト道を登るルートが時間は掛かる(約90分)がなだらかな登りで体力的にはお勧めだろう。本陣山から秀長陣を経由して久松山へも遊歩道が整備され迷うこと無く登ることができる。(約60分)

 太閤ヶ平秀吉本陣は基本的には約50m四方の縄張りで、南東部に突き出した部分があり、南西隅と北西隅に櫓台が設けられている。この内陣の周囲を土塁と横堀が囲繞し、一部矢が掛けられるように折れがある。横堀は一部確認出来ない部分もあったが、本来は全周していたと推測される。

 内陣の虎口は南と北に開かれ、南側が大手口は南東部突き出した部分と南西隅の櫓によって防御されている。搦手口である北の虎口を出ると、現在通信設備が建つ広い削平地一帯には秀吉直属の部隊が駐屯していたと考えられている。

 太閤ヶ平の陣は、この秀吉本陣を頂点として久松山へと至る尾根筋、六角展望台から西へ麓の栗渓神社に至る尾根筋、この二つの尾根に挟まれた本陣山西側の斜面一面に無数の小さな段曲輪が構築され、秀長の陣から本陣山の麓付近まで二重の竪堀と横堀が構築され、太閤ヶ平陣の大防衛ラインを形成している。

 全てを見て回ることはとても適わないが、短期間にこれほどのまで大規模な陣城を構築したことに驚かされる。たとえ毛利方に兵糧が潤沢にあったとしても、久松山を包囲する陣容は毛利方を圧倒するものであっただろう。 


歴     史
( 本陣南東部の突出部 )
( 本陣北側の土塁と横堀 )
 太閤ヶ平秀吉本陣は、天正9年に羽柴秀吉によって築かれた。天正6年、播磨上月城を毛利氏から奪還して以降織田信長は、羽柴秀吉を指揮官として毛利氏の領国への侵攻を本格化させ、織田方による調略により備前の宇喜多直家・東伯耆の南条元続を毛利から離反させた。

 天正8年、羽柴秀吉は孤立する但馬・因幡へ侵攻を開始する。但馬の山名祐豊らを降し、秀吉自ら1万の軍勢を率いて因幡へと進軍し鳥取城を包囲する。城主山名豊国は、鹿野城に置かれた毛利方の因幡国衆の人質を押さえられ秀吉に降伏した。

 毛利方も山名豊国に不満を持つ家老中村春続・森下道誉ら調略し豊国を追放させ鳥取城を奪回した。中村・森下氏は吉川元春に山名氏に代わる守将の派遣を要請する。

 天正9年、吉川元春は一族の福光城主吉川経安の嫡男経家を鳥取城へ城督として派遣すると、羽柴秀吉は2万の大軍を率いて再度鳥取城を包囲して兵糧攻めを行う。100日に及ぶ籠城戦で兵糧の尽きた毛利方は開城し、守将吉川経家は久松山山麓の真教寺にて自刃して果てた。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陰本線鳥取駅〜バス/樗谿公園 やまびこ館前
 車 : 鳥取道鳥取IC〜国道29号線〜県道21号線〜国道53号線
駐車場: やまびこ館の第一・第二無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
鳥取城包囲する秀吉が本陣山に構えた陣城。

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