お城のデータ | |||||
所在地: | 大分県速見郡日出町二の丸 | ||||
遺 構: | 曲輪、移築現存櫓、石垣、空堀 | ||||
形 式: | 平山城 | 築城者: | 慶長7年 | 築城年代: | 木下延俊 |
見 ど こ ろ | ||||||||
日出城は、別府湾に突き出した台地の先端部を利用して築かれている。その縄張りは、南北に長い長方形をした本丸を海を背にして配置し、本丸の海に面した南側を除く三方を水堀と空堀で囲み、北と南の二箇所に虎口を開いている。 本丸の三方を取り囲むように二の丸を配し、その外側には堀が設けられてている。二の丸は北に外大手門、東に中ノ門を開き、塁上には平櫓が二基建てられていた。三の丸は、二の丸東側の海沿いに設けられ東に浜口門、西に三の丸口門が開かれいた。二の丸・三の丸の北側に城下町が形成され、北に藤原口門と西に八日市門が開かれていた。 現在は、本丸一帯が日出小学校の敷地となっていて、本丸を囲繞していた水堀と空堀が完存し、小学校南側(海に面して)には腰曲輪一帯が小公園となっていて三層の天守が建てられていた天守台や二層の望海楼(久頓櫓)台をはじめとする本丸の高石垣が見事だ。 二の丸は概ね住宅地と日出中学校敷地となり、三の丸は日出幼稚園と住宅地となっている。日出町役場北側の道路が日出城外郭の北端ラインと重なっていて、役場の北東部にある光蓮寺境内付近が大神氏が築いた日出城のあった場所だ。 本丸内は小学校敷地の為、民家に移築されていた鬼門櫓・裏門櫓が本来建っていた場所とは少しずれているが本丸大手前に再移築されている。鬼門櫓はその名の通り本丸北東隅に建てられていた二層の櫓で、北東隅は「鬼門除け」が施されている。 天守台からの眺めは、別府湾を挟んで正面にお猿の高崎山、右手に別府温泉の湯煙、左手に遠く大分府内城下。この景色を眺めながら、城下カレイに舌鼓を打ち、豊後の地酒に酔う・・・夢物語か? |
歴 史 | ||||||
慶長5年、関ヶ原の役では父家定が東西どちらにも与せず中立を保ち京に居住する高台院の守護に当たっていた。しかし、城代として姫路城にいた木下延俊は、義兄細川忠興の助言に従って東軍に与した。関ヶ原後、丹波・但馬の西軍の諸将を率いて細川幽斎の籠もる田辺城を攻めた小野木重勝の居城福知山城を忠興と共に取り囲み、開城には重勝を自刃させた。延俊はその戦功により家康より日出3万石を与えられた。 慶長6年に木下延俊は日出に入部したが、大神氏が築いた日出城は天正14年に島津氏によって攻め落とされ、その後佐伯城主毛利高政の弟重政が入ったが荒廃した城であった為、新城の築城に着手した。築城には義兄細川忠興が経済的支援や築城の縄張りも家臣穴生理衛門を派遣して当たらせている。 寛永19年に木下延俊が没し嫡男俊治が家督を継ぐ。この際、俊治は父延俊の遺言に従って弟延由に豊後立石に5,000石を分知し、延由は交代旗本に列している。この延由が豊臣秀頼の子国松であったとする言い伝えもある。兄木下延治は25,000石を相続して以降、木下氏は江戸時代を通じて日出を動くことなく16代俊愿の時に明治を迎えた。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR日豊本線暘谷駅〜徒歩約10分 |
車 : | 日出バイパス日出IC〜国道10号線 |
駐車場: | 二の丸館の無料駐車場を利用。 |
ひとくち MEMO | ||||||
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