播磨 明石城


お城のデータ
所在地 兵庫県明石市明石公園
遺 構 櫓2基、城壁、移築門、曲輪、石垣、堀
形 式 平山城 築城者: 小笠原忠真 築城年代: 元和4年


見 ど こ ろ
 明石城址は、JR明石駅のホームからまず見るべし。

 緑に覆われた三の丸、その緑の上に築かれた高石垣、その石垣の上には均整のとれた明石城のシンボル、2基(巽櫓・坤櫓)の三層櫓、そしてこの2基の櫓を結ぶようにある白壁の城壁。この風景を見ると、お城に向かって一目散に駆け出したくなる。

 本丸には天守台が築かれているが、天守は建てられなっかた。天守の代用を400年に亘って この2基の櫓(巽櫓と坤櫓)が努めているのだ。阪神大震災で相当ダメージを受けたが、装いも新たに修復された。

 明石城は、丘陵の先端に築かれているため、本丸北側は、剛の池、桜堀を挟んで高低差はあまりない。その反対に南正面には石垣が高々と築かれている。特に、本丸西側天守台、本丸・二の丸・東の丸南側の高石垣は見応えがある。

 高石垣に守られた二の丸への虎口(大の門・白の門)への石段付近の2ヶ所は、なかなかのもの。また、高石垣とは言えないが、稲荷曲輪西南隅の「正の櫓」跡の石垣と坤櫓は結構絵になる。


歴     史
 元和2年、播磨姫路城主池田利隆が没し嫡男光政が幼少のため因幡鳥取へと移封となるが、この時明石船上城主であった池田由之は光政に従って伯耆米子へと移った。

 西国街道と瀬戸内海の海運の要衝の地である明石を重要視した幕府は、徳川家康の外孫である小笠原忠真に10万石を与え、信濃松本から船上城へと移した。

 元和4年に忠真は船上城を廃して新城明石城を築城する。築城にあり忠真の舅姫路城主本多忠政が縄張り・築城工事を応援した。

 寛永9年、小笠原忠真は豊前小倉へ移り、代わって戸田康直が7万石を領して信濃松本から入る。寛永16年には戸田氏は美濃加納へと移り、その後大久保・松平・本多氏と城主はめまぐるしく入れ替わる。

 天和2年、松平直明が越前大野から6万石で入封する。天保3年、明石松平家8代斉韶には嫡男慶憲がいたが、11代将軍家斉の子斉宣が養子となり家督を継いだ。この関係で明石松平氏は8万石に加増されて格式も10万石格となった。しかし、斉宣は天保15年に死去し、慶憲が明石松平10代当主となり幕末の動乱を乗り切っている。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陽本線明石駅〜徒歩すぐ
 車 : 第二神明道路大蔵谷IC〜県道21号線〜県道52号線
駐車場: 明石駅前・明石公園の有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
駅のプラットホームから眺めると自分と同じ視線に白亜の櫓が見えるお城。

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