美濃 岐阜城


お城のデータ
所在地 岐阜県岐阜市天守閣(金華山)
遺 構 模擬天守、模擬櫓、土塁、石垣、曲輪
形 式 山城 築城者: 二階堂行政 築城年代: 建仁元年


見 ど こ ろ
( 岩山を削った堀切 )
( 二の門と石垣 )
( 二の門下の信長期以降の石垣 )
( 天守曲輪南側鞍部の石垣 )
( 天守曲輪東下の復元櫓 )
( 天守曲輪東側の石垣 )
( 裏門付近の石垣 )
 織田信長が斎藤道三の居城であった稲葉山城を禅僧沢と図り岐阜城と改称してから10年間、この城を本拠として信長の天下統一の夢に向けて東奔西走する。

 岐阜城(稲葉山城)は、眼下に長良川が流れ濃尾平野を一望することができる金華山山頂に築かれた「山城」と金華山西麓に築かれた「居館」と2つのエリアに別れている。

【山頂部の城】
 ロープウェーでも登れる山頂の城は、三層の天守(復興)と模擬隅櫓が建てられている金華山山頂の主郭部が置かれ、南北に伸びる尾根を削平して上台所・下台所と呼ばれる曲輪、堅いチャートの岩山を削り取った堀切を隔てて太鼓櫓曲輪、ロープウェイ山頂駅となっている七面櫓曲輪、りす村がある硝煙蔵曲輪が連郭式並ぶ。一の門から南へと伸びる支尾根筋には松田尾砦(曲輪)が築かれている。

 山頂部の各曲輪は、櫓などの建物を一棟建てれば一杯になるほど手狭な曲輪だ。斎藤時代から信長時代を通して中世城郭を色濃く引き継いだ規模なのだろう。

 岩山の金華山に築かれているため石材には不自由しなかったのだろう、高石垣こそないが岩盤を利用して築かれた石垣が随所に残っている。巨岩の利用した一の門付近、桝形となっている二の門付近に良く残っている。

 上台所から天守曲輪までの鞍部は東側の木々が切り払われ、ここから眺める天守の姿がこの城一番のビューポイントだ。天守の姿だけでなく鞍部に積まれた石垣も見事。この石垣は二段に分かれて築かれ、以前は谷であった場所に通路を造る為に信長時代以降に築かれたと考えられている。

 天守台や天守曲輪周辺の石垣は、天守閣への入口左右で積み方が異なり、信長時代と信長以降の池田輝政による修築と考えられている。また、資料館の模擬櫓から見る天守曲輪南東角の石垣も見応えがあった。

 天守曲輪から東の尾根筋に築かれた小曲輪を経て裏門へと下る。裏門付近にも斎藤時代に築かれた石垣が残り、水の手へと続く尾根には崩れて放置された石垣の巨石が転がり、かつては搦手にも大手筋同様に巨石を用いた石垣が築かれていたようだ。


【山麓部の居館】
 山麓部の居館は、現在は岐阜公園の一部となっていて、ロープウェイ山麓駅のある辺りから南側一帯に築かれていた。居館部は、斎藤氏時代の居館と信長入城後の居館部はほぼ重なっていると考えられ、信長時代の地層下から斎藤時代の石垣も出土している。

 居館部は谷川を挟んで三段に分かれた縄張りとなっていて、谷川上流部に面した最上段に曲輪には信長の奥座敷と茶室があったとされる。中段の千畳敷一帯がかつてポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが紹介した楼閣(信長の住居)が建てられていた。谷川を挟んだ曲輪には信長の迎賓館と思しき御殿があったと考えられている。

 岐阜公園内の歴史博物館に是非立ち寄ってほしい。ここには、加納城の模型や信長の居館が詳しくビデオなどで展示されている。


歴     史
( 居館入口の冠木門 )
( 居館虎口の巨石石垣 )
( 居館虎口の巨石石垣 )
( 居館虎口の石垣 )
( 千畳敷北側の石垣と水路 )
 稲葉山城は、建仁元年に二階堂行政によって築かれた。その後、室町時代には川手城を居城とした美濃の守護土岐氏の守護代斎藤利永が修築して居城としたが、文安2年に加納城を築いて移った。

 戦国時代になると守護土岐氏・守護代斎藤氏が家督争いにより衰退し、斎藤氏の一族長井利隆、長井長弘が実権を握る。この主家の内訌で台頭したのが、山城山崎の油売りから身を起こした後の斎藤道三である。

 天文8年、道三は加納城を廃して稲葉山城を修築して居城を移した。天文10年に守護土岐頼芸の居城大桑城を攻めて頼芸を尾張に追った。織田氏との和議により大桑城に戻った頼芸を天文20年頃に再び追放して美濃一国を手に入れた。

 晩年道三は、稲葉山城を子の義龍に譲り鷺山城へ隠退するが、弘治2年に道三・義龍父子が長良川で戦い、義龍の大軍に敗れた道三は討死にしてしまう。

 その義龍も5年後の永禄4年に急死。道三の孫龍興が城主となるが、永禄10年に美濃三人衆(曽根城主稲葉一鉄・大垣城主氏家卜全・北方城主安藤守就)らの離反もあり、龍興は稲葉山城を織田信長に攻められ、支えきれず城を捨て退散した。

 織田信長は居城を尾張小牧山から稲葉山城へと移し井ノ口を岐阜と改称した。信長は、天正4年に安土城を築いて岐阜城を嫡男信忠に譲るまで10年間居城した。天正10年の本能寺の変で信長・信忠が倒れた後、信長の三男信孝が入城する。

 天正11年に信孝は信長の跡目争いに敗れ自刃。その後、岐阜城には池田元助・池田輝政が居城。輝政の時代に城の修改築が行われた。天正18年に輝政は三河吉田へと移り、秀吉の養子秀勝が入るが文禄元年に病没し、織田秀信(三法師)が城主となった。

 慶長5年の関ヶ原では織田秀信は西軍に付き、東軍に攻められ開城。秀信は高野山に蟄居した。関ヶ原後に徳川家康は岐阜城を廃城にし、新たに加納城を築かせた。この時天守も加納城へと移築された。 


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線岐阜駅〜バス/岐阜公園歴史博物館前
 車 : 名神一宮JCT〜東海北陸道岐阜各務原IC〜国道21号線
駐車場: 岐阜公園の有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
ロープウエイで登るのも良し、登山道をハイキングするのもお奨め。

岐阜県のお城
一覧表へ
トップページへ 岐阜市のHPへ

東海のお城
静岡県愛知県岐阜県三重県