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| ( 三の曲輪群二段目の石垣 ) |
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| ( 三の曲輪群三段目北側の石垣 ) |
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| ( 三の曲輪群三段目西側の石垣 ) |
麻底良城は、天正年間の初期に秋月種実によって築かれた。秋月氏は、古城山城を本拠として夜須・上座・下座・嘉麻・穂波五郡を領していた。
天文年間に大友氏に属していた秋月文種は、毛利元就を頼って弘治3年に大友氏に叛旗を翻したが、大友氏に攻められ毛利元就を頼って長門へと退去した。永禄2年に秋月氏を再興した種実は、その後も毛利氏を頼って豊後大友宗麟に反抗してしていたが、永禄12年には大友氏に降る、本領安堵されている。
天正6年に大友宗麟が日向耳川の合戦で島津氏に大敗すると、秋月種実は大友氏を離れ島津氏に属した。麻底良城は、この頃(天正年間初期)に豊後方面への押さえの支城として築かれ、喜津瀬因幡・同主水が城番となっている。
天正15年の豊臣秀吉の九州征伐時、島津氏に属していた秋月種実は日向高鍋へと移封となり、筑前を与えられた小早川隆景が入国すると、麻底良城へは仁保隆康が入った。
慶長6年に関ヶ原の戦功により豊前中津から筑前一国に加増され名島城へ入った黒田長政は、本城の福岡城築城と共に豊前・豊後への抑えとして六端城の一つとして麻底良城を修築し、筆頭家老栗山利安に15,000石を与え城主とした。しかし、元和元年の一国一城令により他の端城と共に麻底良城も廃城となった。 |