筑前 鷹取山城


お城のデータ
所在地 福岡県直方市永満寺
遺 構 曲輪、石垣、土塁、堀切、畝状竪堀
形 式 山城 築城者: 永承元年 築城年代: 永井宗久


見 ど こ ろ
(本丸下段永満寺口)
( 本丸上段西の桝形虎口 )
(本丸上段北虎口の石垣)
( 本丸下段南虎口 )
 鷹取山城は、直方市街の東に聳える福智山から上野越と云われる鞍部を挟んで西側に位置する鷹取山山頂に築かれている。

 比高560m、山城の中でも比高では日本で一二を争う城だ。山歩きが好きな方にとっては大した比高ではないかもしれないが、城があるから山に「登らざるを得ない」者にとってはこの比高は難行なのだ。

 しかし、城址からの眺望は遠賀川の流れに沿って響灘まで一望することができ、平安の古来からこの山に城を築いて、筑前鞍手郡の要の城となっていたのも頷ける。

 鷹取山城の縄張りは、山頂部に二段に分かれた本丸を置き、上野越へと至る東の尾根筋には堀切を挟んで二の丸曲輪群があり、山頂から北へ伸びる尾根筋にも曲輪群を配置している。

 本丸は、二の丸曲輪群・北尾根曲輪群と比べて堅固な造りで、上段・下段とも総石垣造りで、上段には東西に内桝形虎口があり、下段には永満寺口と南口と二ヶ所の外枡形虎口が設けられている。そして、主郭部の西面を除く三方を約20条もの畝状竪堀群が取り囲んでいる。

 本丸を囲繞していた石垣群は、廃城による徹底した破却がなされているが、上下段の虎口付近の石垣は比較的良く残っており、黒田氏による改修の跡をしることができた。

 一方、二の丸は毛利・筑紫氏時代の中世城郭の様相そのままで、総石垣造りの本丸に比べ防備面では弱い面がある。

 母里友信が城主となり城の改修時に主君黒田長政から「長く持ちこたえる城でないから、人力をついやすのは無用だ」と云われ憤慨したと逸話が残るが、鷹取山の比高も考慮すると福岡からの主力の来援まで籠城戦を行うことが前提ならば、本丸以外の曲輪群が近世城郭への改修がなされなかったことも納得がいく。


歴     史
( 本丸上段南西隅の石垣 )
( 本丸下段北側の石垣 )
( 北曲輪群の堀切 )
 鷹取山城は、永承元年に長谷川吉武の宿老永井宗久によって築かれ、正慶2年には少弐頼直が居城していた。南北朝時代の貞和元年には筑紫棟種が城主となり、以後種遠−種重−種盛と筑紫氏が代々居城とした。応永6年に菊池武宗攻略され落城した。

 戦国時代の天文〜天正年間には毛利鎮実が城主となっていた。鎮実は当初は周防大内氏に従っていたが、天文11年に豊後大友宗麟に攻められ大友氏に降った。

 天正年間には大友氏と島津氏の九州二大勢力の対立が激しくなる中、天正14年に筑紫広門が城主となが、鷹取山城は島津氏に攻められ落城して広門は肥前勝尾城へと逃げ込んだ。

 天正15年の秀吉による九州征伐後に鷹取山城は廃城となるが、慶長6年、黒田長政が関ヶ原の戦功により豊前中津から筑前一国の拝領して名島城へと入り、本城の福岡城を築城すると共に隣国への備えのため六端城(若松城黒崎城・鷹取山城・益富城松尾城麻底良城)を整備し、鷹取山城へは母里友信に18,000石を与えて居城させた。

 慶長11年に益富城主後藤基次が主君黒田長政との確執から逐電したため、友信が益富城へ移り、替わって手塚光重が鷹取山城へ入った。しかし、元和元年の一国一城令により鷹取山城は廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: 平成筑豊鉄道伊田線赤池駅〜バス/上野峡入口
 車 : 九州道八幡IC〜国道200号線〜県道22号線〜県道62号線
駐車場: 福智山登山者用の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
山城の中でも比高では日本で一二を争うお城。

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